読書

2009年8月 9日 (日)

アラフォー世代のジレンマ解決本?

まつこです。

新潟は湿度85%です。まるでお風呂の中です。あるは雨期のジャングル。この蒸し暑さの中、健診のために母を病院につれていき、買い物をし、食事の支度をし、合間に仕事・・・。いささかへこたれてきました。そこでブログを書いて気分転換!

職業柄、本と接している時間は長い方だと思いますが、「栞」(しおり)で気に入ったものというのは、あまり多くありません。金属製やプラスチック製の立派なのは邪魔になります。デザインが良くても厚すぎたり、重すぎたりするのはだめです。文庫本や新書についてくる薄っぺらい紙のは気がつくと無くなっていることが多く、使い捨てです。

Photo_3[これはアルチンボルドの『春』。今は仕事の本に挟んであります]

最近気に入っている栞は、春にルーブル美術館の売店で買ったものです。16世紀のイタリアの画家アルチンボルドの『春』と、18世紀の彫刻家カノーヴァの『エロスとプシュケ』をデザインした2枚の栞。この週末に新潟に持ってきた2冊の本に、ちょうどその2枚の栞を使っています。

アルチンボルドの『春』は咲き乱れる花や若々しい緑で人物の肖像を描いたものです。ちょっと不気味ですがユーモラスなので、目下、仕事で読まねばならぬお堅い研究書に挟んで使っています。数ページ読んで眠くなったときは、この花びらを数えて眠気を飛ばします(嘘)。

Photo_4[こっちは眠くならない方の本]

もう一方の『エロスとプシュケ』はきれいな彫刻で超有名ですね。こちらを使っている一冊はシェーン・ワトソン(Shane Watson)というコラムニストが書いた『40才過ぎて男と出会う方法』(How to Meet a Man after Forty)というエッセイ。副題は『その他もろもろの中年期のジレンマ解決法』(And Other Midlife Dilemmas Solved)。表紙タイトルの「40歳」というところにはアステリスクで注釈がついていて「あるいは30歳」と記されています。30代、40代、いわゆるアラフォー世代のあれこれの悩みを、本音で、鋭く、しかし笑いをもって分析した軽い読み物です。

アラフォー世代のジレンマとは――。「年より若く見えたい!」「女友達の中の困ったチャンと本当の友達の見分け方」「だんだん母親に似てきた、まずい!」「独身のままでも幸せになれるか?」「子連れ男と結婚できるか?」などなど。この本はこうした悩みに、人生相談のような助言をするのではありません。アラフォー世代のリアルな視線で、恋愛、ファッション、家族、友人関係などを語り、現代の「いつまでも若く美しく、生活をエンジョイしている女性たち」の実態をセルフ・アイロニーをもって描いています。

たとえば「整形族」と「アンチ整形族」の分類。「アンチ整形族」とは「いくらきれいでいたいと言っても、美容整形手術なんて不自然なことはイヤ」というタイプです。しかしこのアンチ整形族、細かく見ていくと無数の分派があります。アンチエイジング化粧品をいろいろ試し、体の線をカバーするファッションを念入りに選ぶという「正統派」、かなりなお金をかけてエステやらデトックスやらありとあらゆることに手を出すけれど「顔に針射すのだけはイヤ派」、ケイト・モスみたいな手を加えていなイメージをめざし、ただのヨレヨレのおばさんになっている「天然派」などなど。

この本では友人も細分化されます。「ただの友達」とはおしゃれして会って、高価なプレゼントを交換して、趣味の良さを認め合うような関係。一方、「本当の友達」は、親のことでも寄生虫のことでもなんでも話せて、似合わない服や似合わない男についてははっきりとダメと言ってくれます。有名で、美人で、才能がある知り合いは、人に見せびらかして自慢する「トロフィー用の友達」です。家庭料理を作ってくれる既婚者や、耳に痛い助言を与えてくれる頼れる人や、いざとなったとき一緒に憤ってくれる理想に燃える独身仲間は、「サバイバル用の友達」・・・といった具合です。

こういう本を読んでいると、イギリスだろうが、日本だろうが、アラフォー世代の女子の生態は変わらないことを改めて認識します。韓国でもオーストラリアでもカナダでもイスラエルでもシンガポールでもたぶん大同小異。「消費=文化」となった先進諸国であればどの国にも、ジレンマをたくさん抱えたアラフォー世代が生息しているはずです。

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2009年7月20日 (月)

デジタル日めくりカレンダー

まつこです。

土曜日の晩に仕事があったため、日曜日から連休を利用して帰省しています。今回の帰省では、うめぞうからママへのプレゼントを預かりました。「デジタル日めくりカレンダー」です。

Photo[うめぞうからママへのプレゼント]

先回帰省したとき、和室でうめぞうが仕事をしていると、母は一時間に一回くらいお盆にお茶とお菓子を載せて、うめぞうのところに運んでいました。ムコ殿はいたって大切にされます。

その茶菓サービスの際に、「あのー、ちょっとお聞きしますが、今日は何日だったでしょう?」と母がうめぞうに訊ねたのだそうです。確かに、毎日、同じ生活の繰り返しだと曜日の区別はつけにくいものです。しかも認知症で日付や曜日を忘れがちな母。一人暮らしでは、日付を聞く相手もいません。

そこでうめぞうがネットで探し出してくれたのが、このシチズンの卓上カレンダーです。電波時計もついているし、温度・湿度も表示されます。なにより良いのが、文字表示が大きいことです。母も「これはいいわー」と喜んでいます。

私は金曜、土曜と、久しぶりにスポーツしたら全身が筋肉痛です。肉体に負荷をかけたら精神的な緊張も緩んだようで、心身ともフニャーッとした週末を過ごしています。今日はいっさい仕事をせず、村上春樹の『1Q84』を読んで過ごしました。

この『1Q84』の中で主人公の男が認知症の父親に会いにいく場面があります。村上春樹は認知症をこんな言葉で表現しています。「認知症には進行はあっても、回復はない。そう言われている。前にしか進まない歯車のようなものだ。」(p.163)「自らの内側で徐々にひろがっていく空白と共存することを余儀なくされている。今はまだ空白と記憶がせめぎあっている。しかしやがては空白が、本人がそれを望もうと望むまいと、残されている記憶を完全に呑み込んでしまうだろう」(p.184)

「前にしか進まない歯車」のように「空白」が記憶を徐々に呑み込んでいく・・・。村上春樹は比喩を多用する文体がその魅力の一つだと思うのですが、全体にその比喩が叙情性に傾き、時として事実としての質量をともなう切実さが消えていく傾向があります。(イスラエルでのスピーチでパレスチナ人を「割れやすい卵の殻」に喩えたのもそうした抒情詩的表現のひとつ。)

認知症は物語の中の小さなエピソードなのでそれでいいのかもしれないけれど、物語の中心テーマはカルト宗教という「やばい」領域なので、もう少しハードでダークな部分があってもよかったのにと、やや物足りない読後感が残ったのでした。

注:『1Q84』って外国語に翻訳するとき、タイトルは"1Q84"とするしかないんでしょうね。タイトルですでに「言葉遊び」が入っているなんて、翻訳者泣かせですね。

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2009年4月 4日 (土)

ヴィンテージものの良さ:A Vintage Affair

まつこです。

Photo今日の新潟は曇り空ですが、庭にはいろんな花が咲いています。秋にまつこが植えたチューリップも花を咲かせ始めました。でもなんでこんなに寸詰まりなの?こういう種類なのかしら?

先日、シルバー人材センターの人が、庭木の冬囲いをはずしてくれました。シルバー人材センターの人への連絡や支払などは、今のところ母がやっています。いつか家や庭の管理が母にできなくなった時、このド田舎のでかい家をどうすればいいのか・・・。考え始めると気が重いのですが、あらかじめ心配しても仕方ないので、そのときはそのとき、行き当たりばったりでいこうと思います。ある程度の計画性は必要ですが、心配し過ぎず、あえて思考停止する、というのも親が老いてきたときの心構えのように思います。

Photo_2ケ・セラ・セラ・・・というわけで、現実から読書にいったん逃避。今回、往復の飛行機の中で読んだのは例によってお気楽な「女子文学」(chick lit)の1冊。Isabel Wolff(イザベル・ウルフ)のA Vintage Affair(『ヴィンテージ・アフェア』)です。イザベル・ウルフは、これまでもガーデン・デザイナー、ラジオの悩み相談のパーソナリティ、ペットのトレーナー、お天気キャスターなど、ちょっと個性的な職業についている女性を主人公にしてきました。今回の第8作目の主人公フィービーは名門オークション・ハウス、サザビーズでのキャリアを捨て、Village Vintage(ヴィレッジ・ヴィンテージ)という名前の小さな古着屋を始めたという設定です。

2009年の1月に出版された小説で、描かれている物語の設定も2008年2月から2009月2月まで。"credit crunch"(信用収縮)という言葉がたびたび出てきますが、金融危機のロンドンを舞台に、億単位の取引をする世界最古のオークション・ハウスでの輝かしい経歴から、小さな個人経営の古着屋へ転身というあたりが、時勢を巧みに反映している部分です。

このVillage Vintage(ヴィレッジ・ヴィンテージ)のウィンドウを飾るのは、フランスのプロヴァンス地方のアンティーク・マーケットで買ったコットン・ドレスのような名もないものから、1930年代のマダム・グレのドレープの美しいドレスや、1940年代から80年代にかけてのシャネル、ギ・ラロッシュ、カルダン、オジー・クラークなどなど様々なデザイナーの手がけた時代を反映するイヴニング・ドレスやスーツの数々まで。素晴らしいカットや布地の手触り、細かな仕立ての職人仕事など、その描写を読んでいるだけでうっとりします。

それぞれの古着にはそれぞれの歴史があります。かつてそれをまとった女性たちの古い物語と、新たにそれを着る現代の女性たちの今の生き方が、時間を超えて交差します。老いや死、友情の喪失、そして再生といった物語が、古く美しいお洋服の歴史とともに語られていくという趣向です。

おもしろく読んだのですが、この小説にまつこは一つ不満を感じました。それは主人公フィービーの周りに、優しくて、ハンサムで、お金持ちと三拍子そろった男が3人もいることです。物語の始まる前に付き合ってた元彼、この小説の中で出会って付き合う彼、小説の終わりに付き合いが始まる彼。物語の「始め」、「中」、「終わり」の3人の男が、いずれも金融危機を切り抜けて生き延びているエリート・ビジネスマン、ロンドンの不動産バブルからタイミングよく抜け出しフランスのシャトーのワイナリーを所有しているナイスミドル、おばあちゃんから遺産を相続したミケランジェロのダビデ像に似たハンサム青年・・・。こんなの、ありえねー!

女たちの痛ましい過去が癒される物語なのですが、傷ついた主人公を1人癒すのに3人ものパーフェクトな男性は過剰でしょう。ヴィンテージのお洋服が丁寧に補修され、新たな輝きを取り戻すというモチーフが繰り返し使われているのですから、多少くたびれた男とか、いささか難ありという男が、実は味わい深いヴィンテージものだったという展開にしてほしかった。その点がちょっと減点されて、うーん、星4つかな。

Photo_3[記事と関係ないけど庭に「つくし」も出ていました]

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2009年3月 7日 (土)

主人はわたしです

まつこです。

昨日は友人のアッキーが我が家にやってきて一緒に読書会をしました。オスカー・ワイルドの『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)という喜劇を読むという企画です。タイトルとはうらはらに、世間で建前として通用している道徳なんてどうせ嘘っぱち、何もかも言葉の遊びにして笑いとばすという、かなり偽悪的な笑劇です。

Photo

[50ページくらいの短い芝居です]

「結婚に関しては私自身、ほとんど経験がありません。これまで1度しかしたことがありませんので・・・」とか「あらゆる女は母親に似てくる。それが女の悲劇だ」というような気取った、皮肉のこめられたセリフが次々出てきます。

日頃から正義感が強く律儀なアッキー。アッキーは「私は血液型A型で真面目。だからどうもこの喜劇の笑いを正確に理解していなのかもしれない。読書会でそのあたりを検証したい」という真摯な目標をたてていました。読書会終了後、「やはりこの芝居は私の感性には合わない作品ですね!」と確信していました。ワイルドの不真面目さがアッキーの真面目さに敗北した感じでした。

この読書会にはアッキーのパートナーも参加しました。アッキーはフェミニストで性による差別や区別をなくさなければいけないという原則をきっちりと実践しています。パートナーのことは「うちのツレ」と呼ぶことが多いようです。フェミニストであるか否かを問わず、配偶者を他人がどう呼ぶか、あるいは自分の配偶者をどう紹介するかは、少し難しい問題です。

「ご主人様」「主人」「旦那様」「旦那」「ご夫君」「夫」「ダーリン」「亭主」「宿六」「相棒」「相方」「ツレ」「うちの」などなど呼び方は様々です。まつこは時と場合に応じて、適当に言いわけています。かなり無節操です。ただうめぞうのことを「うちの主人」と呼んだことはないですね。あまりに実感から遠いので「ご主人」と言われてもピンときません。

時々、不動産売買のセールスなどの電話がかかってきて、妙な猫なで声で「奥様でいらっしゃいますか? ご主人様はご在宅でいらっしゃいますか?」と言われると、「主人は私です」と言い返すことにしています。読書会のあとは、アッキーたちカップルとウメマツの4人で、そんな話題で盛り上がりながらの宴会になりました。

ちなみに『真面目が肝心』(The Importance of Being Earnest)は、ルパート・エヴェレットとコリン・ファースにジュディ・デンチという豪華メンバーで映画化もされています。『アーネスト式プロポーズ [DVD]』 という変な邦題が付いていますが台詞はほぼワイルドの原文のままです。ただし映像でちょっとした工夫をして、原作とは違ったオチがついています。

ルパート・エヴェレットとコリン・ファースは、『アナザー・カントリー』以来の映画共演です。あの日の美少年たちの面影はありませんが、はなもちならないほどお上品なイギリス上流階級の言葉づかいと、一部の隙もない見事な正装は、アメリカ人俳優にはなかなかまねできない雰囲気を出しています。

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2009年2月28日 (土)

女子の文学

まつこです。

今週は一人で新潟に来ました。電話で母が「編み物の仕方がよくわからなくなった」と言っていたので、この数日間に認知症が進んでしまったのかと懸念しながら来たのですが、それほど大きな変化はなくホッとしました。認知症というのは見ているとPCのハードディスクの不調とちょっと似ています。少し動きが重くなったり、急にフリーズしたりする古いPCも、余分なソフトを削除したり、いらないファイル消したりすると、またしばらく使い続けられます。編み物も、毛糸のつなぎ目みたいたなところを一緒にやってあげたら、そのあとせっせと編み始めました。セーフモードでできるだけそっとがんばってもらいます。

こうして毎週、新潟と東京を行ったり来たりしていますが、その行き帰りの新幹線の中ではよく雑誌や軽い読み物を読みます。今週は、新幹線の中でSophie Kinsella(ソフィー・キンセラ)のRemember Me? (『リメンバー・ミー?』)を読み終えました。いわゆる"Chick Lit"(チック・リット)と呼ばれる若い女性向けの通俗小説の一冊です。実はまつこはChick Lit愛読者なのです。

Photo[表紙のデザインがカラフルで派手なのもChick Litの特徴です]

"Chick"はもともと「ひよこ」という意味ですが、そこから「かわいこちゃん」というような、若干、俗な言い方で若い女性を指す意味で用いられるようになりました。"Lit"は「文学」"literature"を短くした言葉です。『ブリジッド・ジョーンズの日記』や『セックス・アンド・ザ・シティ』あたりから始まり、この10年ほどに、若い女性を主人公とし、若い女性を読者とする、若い女性によって書かれた物語が次々と出版され、どんどんと売れるという現象がおきました。

若い女性ですから当然、恋愛が大きなテーマとなります。しかし従来のハーレクィン・ロマンスなどと違うのは、登場する女性たちが、職業を持って経済的に自立しており、多くの場合、マスメディアや金融業界などで働く都市生活者であるということです。必然的に彼女たちの恋愛模様とともに、きわめて活発な消費生活が描かれます。

今回のキンセラのRemember Me?も主人公は室内装飾からビルシステムまで扱う会社の一部門を率いる女性ボスです。ハンサムな夫はロンドンで高級ロフトの取引をするデベロッパー。ところが交通事故にあってしまい、記憶を失ってしまいます。さえない安月給の独身OLだった3年前までのことは思い出せるのだけれど、キャリアの階段を急速に駆け上がり、グラビアそのままのような高級フラットで結婚生活をするようになった経緯をまったく忘れてしまったという設定です。

なぜワードローブにアルマーニのスーツがずらりと並んでいるのか、なぜ免許を持っていなかったはずなのにベンツのコンパティブルを持っているのか、なぜルイ・ヴィトンのバッグやダイアモンドがたくさんあるのか、なぜディオールの化粧品がぎっしりと引出しにはいっているのか。全然思い出せない・・・という具合に、商標名が次々に出てきます。ちょっと商品カタログを見るような楽しみがあるのがChick Litの一つの特徴です。

もうひとつ従来のロマンスとChick Litの違いは、フェミニズムの波に洗われた後の女性たちの持つセルフ・アイロニーや批判精神がほどよく取り入れられていることでしょう。甘いロマンティックなハッピーエンドが必ず用意されていたロマンスに比べ、Chick Litの場合は男性への幻滅やキャリア志向の挫折などが、しばしばモチーフとして利用されます。

Remember Me?でも不動産バブルに沸くロンドンを舞台として、金に糸目をつけずに高級マンションを売買することへの疑問や、経営合理化をはかるために不採算部門を閉鎖していともあっさりと人員整理をする企業への批判が盛り込まれています。作者のキンセラはもともとファイナンシャル・ジャーナリストだったので、世界同時不況の気配を察知し、恋愛小説の中にもその危機感を取り込んだということなのでしょう。

現代の女子は恋愛もし、キャリアも積み、消費文化を楽しみながら、社会経済について批判精神も持っているというわけです。そんな働く現代女子の生態を描いたChick Litが、バブル経済が世界的にはじけた今、これからどんなトレンドに向かうのか、ちょっと関心を抱いています。

追記:キンセラの作品には"shopaholic"(お買いもの中毒)のレベッカを主人公にしたシリーズがあります。こちらは邦訳もあるようです。シリーズ第1作The Secret Dreamworld of a Shopaholicは映画化もされました。『お買いもの中毒な私』として5月に日本でも公開予定とのことです。

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2009年2月16日 (月)

おばあちゃん力

まつこです。

今日の新潟は冬に逆戻り。うっすらと白い雪がベールのように庭を覆っています。

Photo[今朝はみぞれまじりの雪]

雪とまつこが東京に戻る日という悪条件が二つ重なり、ママは元気がありません。月に2度参加している近所の老人体操教室も、昨日は張り切って参加する気になっていたのですが、今朝は休むと言い出しました。「行きたくなかったら休んだらいいんじゃない。でもがんばって行ってきたら気分良くなるよ」と、励ますでもなく、慰めるでもなく、てきとうに曖昧な態度で接していたら、「病欠」であることを主張するために、「風邪気味だからベッドで休む」と寝室にひきこもってしまいました。やれやれ。まあ、お昼ぐらいまで寝かせておきましょう。

Photo_2[母のベッドの上の本]

昨日、母の寝室の掃除を手伝っていたら、ベッドに私が買ってきてあげた本が置かれていました。一冊は『佐賀のがばいばあちゃん (徳間文庫)』。以前、ネットで認知症の人でも楽しんで読んだという記事を目にし、母のために選んだものです。昨晩、私も借りて読んで、思わず目頭を熱くしてしまいました。貧乏でも明るくたくましいおばあちゃんの前向きな生き方、まだ日本が貧しかった時代に生きていた人達の人情、母親と少年の心の結びつきなど、つぼを押さえています。

もう一冊は『思うとおりに歩めばいいのよ―ターシャ・テューダーの言葉 (ターシャ・テューダーの言葉)』。写真がきれいですし、写真に付けられたメッセージもそれぞれ短いものなので、記憶力が衰えていても、これなら読めるのではないかと店頭で見つけて選んだ本です。これも母にはちょうどよかったようです。毎晩、適当なページを開いては、写真とメッセージを楽しんでから就寝しているそうです。「とても穏やかな素敵な生き方ねぇ」と感心しているので、「ママだって、冬は編み物やって、春から秋は庭と畑の手入れやっているんだから、ターシャ・テューダーとそれほど変わらないわよ」と言ってあげたら、ちょっとうれしそうでした。

二冊ともしなやかでたくましい「おばあちゃん力」を描いた本です。明るく笑い、日々の変化をいつくしみ、穏やかに老いを受け入れる、そんなおばあちゃんにいつか私もなりたいものです。

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2009年2月13日 (金)

この人の亡霊に会いたい

まつこです。

先日、うめぞうが聖書についての記事を書いていましたが、うめぞうがイエスのように「復活」したら「まずはまつこに会いに来る」とのこと。でも我々俗人の場合は、「復活」ではなく「幽霊」とか「おばけ」というべきでしょうね。うめぞうのおばけはあまり怖くはなさそうですが、「ちゃんと野菜を食べろ」とか「運動不足はよくないぞ」とか、口うるさそうな気がします。

あの世から配偶者が幽霊になって戻ってきたという状況を、コミカルなドラマに仕立てあげた作家がいます。イギリスのノエル・カワード(Noel Coward)という劇作家が書いた『陽気な幽霊』(Blithe Spirit, 1941)です。カワードは男女の微妙な心理をウィットのきいた軽妙洒脱な会話で描くのを得意としていました。

Photo[劇作家ノエル・カワード、なかなか素敵でしょう?]

作家チャールズは一人目の奥さんエルヴィラを7年前に亡くしましたが、ルースと再婚し、執筆活動も順調で幸せな生活を送っていました。ところがある晩、小説の題材にしようと霊媒師を呼んで降霊会を開いたらエルヴィラの幽霊があらわれてしまいました。チャールズをめぐって、一人目の妻と二人目の妻の三角関係が繰り広げられることに・・・。

設定は荒唐無稽ですが、小気味よく繰り広げられるおしゃれな会話を通して、プライドの高い男女の心の中に隠れていた嫉妬や虚栄心が、滑稽に浮かび上がってきます。知的で成熟した二人目の妻ルースですが、実は、前の奥さんへのライバル意識が心の中にたっぷり隠れています。エルヴィラの亡霊が出てきてしまったのは、降霊会の前にチャールズにルースが先妻についてあれこれしつこく質問していたことが原因です。

ルース:「前の奥さんの方が私よりきれいだった?」

チャールズ:「そんな質問はつまんないし、どんなふうに答えてもその答えは間違いってことになるだろ」

ルース:「あら、子供っぽいのね。前の奥さんの方がきれいだったら、私が気にすると思っているの?」

チャールズ:「女はみんな気にするだろう。それとも女性心理についての僕の理解は古すぎるのかな。」

ルース:「古いって言うより、思考が単純なのよ。あなたが別の女性に魅力を感じたら、エルヴィラなら気にするでしょうけど、同じ欠点が私にも当てはまるとは限らないのよ・・・」

こんなふうに男女の恋愛感情の機微を巧みに描いたカワードですが、実は本人はゲイでした。劇作家でありかつ俳優。作詞、作曲もし、甘い歌声も残っています。そしてめちゃくちゃハンサムでめちゃくちゃファッショナブル。こんなノエル・カワードの亡霊が現れたら、甘くほろ苦い片思いをしてしまいそうだな、と思うまつこでした。

陽気な幽霊 [DVD]:デイヴィッド・リーンが監督した古い映画がDVD化されています。結末は舞台の芝居とはとちょっと違っていますが映画の脚本もカワードが書いています。

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2009年1月27日 (火)

青空メッセージ

まつこです。

新潟から東京に戻ると、大きく広がった青空が、ほんとうにうれしく思えます。雪国の生活にも、雪景色の風情や、人々の辛抱強さ、春を迎える喜びなど、良い面もあるのですが。

今朝、母に電話をすると、「今日もみぞれまじりの雪よ」と、ちょっと暗い声だったので、「こっちは快晴よ。青空に白い富士山が見えるわよ」と、思いきり明るい声で話しかけました。たいへんね、寒いでしょうね、かわいそうねという具合に、あちらの状況に合わせた調子で話すと、母の暗い気分が続いてしまいます。ここは、「青空メッセージ」を送って、多少強引にでも気分を明るくしてもらうことが大切。こちらが明るくきっぱりした調子で話していると、コロリとママの気分も明るくなるということがよくあります。

Photo[hlxは「タクシーの値段で空の旅」というキャッチフレーズのドイツの格安航空券のエアライン。今はTUIflyという名前に変わっているみたいです。下に見える景色はどこでしょう?]

「青空」という言葉で思い出すのは、福田みな子さんの『雲の上はいつも青空 (中公文庫)』という一冊です。東京でのOL生活を捨て、エール・フランスの客室乗務員としてパリをベースにして過ごした日々のことがつづられています。見知らぬ土地や人々に対するたくましい好奇心、新しい出会いや、微笑ましい失敗談などが、生き生きとした言葉で描かれています。もともとは雑誌の『マリ・クレール』に連載されたエッセイのようですが、鋭敏な感受性をもって経験した出来事が、時にユーモラスに、時に繊細に語られており、一章ごとに書き手の文章を書く喜びが、そのまま読者に伝わってきます。

タイトルの『雲の上はいつも青空』は、辛い別離を経験したあとで、乗務中に雲を突き抜けて再び青空を見た瞬間を描く場面からとられています。絶望に打ちのめされた後に、再び飛翔するしなやかな若さ、その力強さが感じられる瞬間です。私はもう何回も再読していますが、そのたびに勇気と元気をこの一冊からもらっています。

とても文章のうまい人なのですが、もう執筆活動はしていらっしゃらないようで残念です。今もヨーロッパ在住であれば、ヨーロッパの美しい街並みの中になじんだ素敵な日本女性の一人として、人生の円熟期を迎えておられることでしょう。あのはつらつとした青春記を書いた若い女性がどんなマダムになっているのかな・・・、あれこれ想像をめぐらしています。

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2009年1月14日 (水)

続明暗

まつこです。

腰痛は少しずつ治ってきています。でも長く横になっていたせいか、目まいがして足もとがふらつき、駅の階段の上り下りが不安なため、今日も一日、自宅で静養していました。明るい日ざしが注ぎ込む部屋で、一人静かに過ごす時間は、久しぶりに味わう贅沢という気がしました。コーヒー淹れて、新聞をゆっくり読んでいると、いつもとは部屋の様子まで違って見えます。

Photo[冬休みに読んだ『続明暗』]

こういうゆっくりした気分でないと読めない読み物もあります。冬休みに読んだ水村美苗さんの『続 明暗』は、漱石の書いた最終章との継ぎ目がわからないほど、文体が同質でした。文章のリズムの変化や文章が喚起する心象風景を、できるだけ正確に理解したいと感じる、知的欲求を刺激する文体のように思います。

時折さしはさまれる短い文章が生み出す一瞬の沈黙。作中人物の視線と一体化して、表情や動作や風景の細部をなぞるように描き出す文章。そしてリアルでありながら、言葉の無駄をいっさい省いた会話。こういうのは急いで読むともったいない。よく味わって読みます。

文体はこのように漱石とシームレスにつながっていますが、人物造形や展開は明らかに女性の作家が書いたものという印象でした。女というものの不可解さを男の側から漱石が描いたのに対し、水村氏の続編はその女たちのうちに隠れていた憎悪、嫉妬、不信を暗闇からひきだして明らかにしてみせています。特に女同士が互いに抱く敵意、これはなかなか男性には想像しがたいものでしょう。

漱石が津田という男の逡巡と自己欺瞞を中心的テーマにすえたのに対し、水村氏はそういう夫の真の姿をまざまざと認識してしまった妻お延が、自然の中でたった一人で立ち尽くす場面でこの小説を完結させています。この最終場面にあって、漱石の主人公であった津田という男は、中途半端な自我を抱えた無様な人間として、はるか遠景におしやられています。

うーん、やっぱり女の作家の方が、男に対しても女に対しても意地悪みたいな気がします。漱石がこの続編を読んだら、ますます女に対する不可解の念を大きくし、「畢竟、女はわからないものだ。ああ恐ろしい」とか言いそうな気がします。

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2008年12月30日 (火)

古い机

まつこです。

今年の年末はウメマツはウメとマツに分かれて、それぞれの実家で過ごすことにしました。システム故障と帰省ラッシュが重なり、とんでもない混雑となった新幹線に乗って、昨晩、まつこはなんとか新潟にたどり着きました。

実家というのは昔使っていた懐かしい道具があるものです。まつこの場合、実家でもっとも馴染み深いものは「机」です。小学校に入学するときに買ってもらった木の机を、いまだに自室に置いて使っています。

Photo[40年以上使い続けている机]

昭和40年代初期はこんな机が小学生用としては最も一般的でした。この机で計算ドリルも夏休みの宿題も、大学受験の勉強もしました。4学年下の弟の机はスチール製だったのですが、そちらはずっと前に捨ててしまいました。やはり木製のものは特に高価なものでなくても、古くなった時に愛着がわきます。

さてこの机の上にあるのは、今、話題の一冊、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で 』です。最終章の教育論の部分が、賛否両論呼んでいるようですが、私にはごくまっとうな議論であると思えます。政治的、経済的、社会的にリーダーの役割を果たすべき人材にはもっと徹底した英語教育をしてバイリンガル・レベルの運用能力を身につけさせるべきである、そして初等中等教育では、全員を対象にもっと徹底した日本語教育を、特に近代文学を読ませることを通して行うべきであるという趣旨です。

右往左往しているうちに次第に生ぬるいものとなった日本の教育に対する憂いが、かなり痛烈な言葉で表現されているので、挑発的な印象ではありますが、同じ焦燥感を共有している人が読めば、かなりすっきりした気分になれます。英語教育に対する日本政府の無為無策ぶりを「危機感の不足と、勇気のなさと、頭の悪さ」(p.268)と断じているあたりは、爽快感すら感じました。

この本を読んでむしろ私が興味深く感じたのは、いわゆる評論のたぐいの本であるにも関わらず、私小説のように一人称の筆者の姿がくっきりと浮かび上がることです。日本政府とは逆に、「危機感を抱く、勇気があって、頭の良い」筆者が、直接、読者に訴えてくる主張の強さがあります。思春期に母語と切り離された環境でむさぼるように日本近代文学を読み、日本語、英語、フランス語という三つの言語をそれぞれを極めて意識的に分析したという個人史が、この筆者の主張と密接に結びついているからだろうと思います。個人的な経験の中で、一人の人間が切実に考え抜いた議論こそが、多くの人が共有できる問題意識を提示できるのだと、改めて考えさせられました。

水村美苗さんの小説、『私小説 from left to right (新潮文庫)と『本格小説〈上〉 (新潮文庫)』はどちらも、以前、とても面白く読んだので、この年末年始の休暇の間に『続 明暗』を読んでみようと思っています。古い木の机で、やや古めかしい小説を読む、ちょっとセピア色の冬休みです。

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2008年11月27日 (木)

びっくりぎょうてん目がテンテン

まつこです。

四六時中ぴったり一緒にいる仲の良い女同士二人。その片方だけが恋に落ちたら、女の子二人の友情には微妙な変化が起きる・・・。シェイクスピアの『お気に召すまま』(As You Like It)にはそんな状況が出てきます。

オーランドーに恋をしたロザリンドは、アーデンの森の中で自分を称える詩が木々の枝にかけられているのを見つけます。木の幹にも誰かが"Rosalind"という名前を彫りこんでいます。「もしかしたらあの人がこの恋の詩を書いたのかしら・・・」と内心は期待しながらも、確証の持てないロザリンドは「いったい誰かしら?」と親友シーリアに問いかけます。

Photo[アーデンの森(実は信州霧ヶ峰の写真です)」

恋する女の子は欲張りで、なおかつ慎重です。うすうす気がついていても、自分の口から「オーランドー」という名前は口に出せません。こんなときこそ親友に、恋の証人として「オーランドはあなたのことが好きなのよ」とはっきり言ってほしいのです。

「男の人よ」「あなたがあげたネックレスを首にしているあの人よ」と、そこまで言っても、それでも「誰かしら、教えて」とロザリンドはしつこく聞き続けます。じらすシーリア、せがむロザリンド。ロザリンドは頬を赤らめ、わかっているくせにどうしてもオーランドという名前を自分からは口にしようとしません。いささか呆れはてたシーリアは、次のように言ってからかいます。

O wonderful, wonderful, and most wonderful wonderful, and yet again wonderful, and after that out of all hooping!(第3幕第2場)

自分のほうから決定的な名前を言い出そうとはしない女心。よくもまあそんなにシラを切り続けられるわねえと、シーリアはなかば感心し、なかば憮然とするわけです。

さてこの"wonderful"の連発はどう訳したらいいでしょう?授業中に学生から出てきた名(迷)訳のひとつは「びっくりぎょうてん目がテンテン。」なかなかうまいですね。同じ言葉を繰り返す原文の面白さを、「テン」という音の繰り返しで表現しています。

聞いてみたら年の離れた小学生の妹がいて、その子の通う小学校ではやっている言葉だそうです。子供は言語感覚とユーモアのセンスの鋭さで、ときどきとても面白い言葉を生みだします。

この表現、我が家でもしばしば使えそうです。洗濯機から出てきた6足のうめぞうの靴下のうち、どれ一つとして正しい組み合わせのペアがなかった時など、まさに「びっくりぎょうてん目がテンテン」です。

追記:松岡和子さんの翻訳お気に召すまま−シェイクスピア全集 15 (15) では、上記のセリフはこんなふうに訳されています。

「ああ、驚いた、驚いた、驚きすぎるくらい驚いた、それでもまだ足りないくらい驚いて、開いた口がふさがらない。」

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2008年11月18日 (火)

人生の秋

まつこです。

イギリスの小説家David LodgeのDeaf Sentenceを読み終えたところです。Lodgeは大学教師を登場人物にし、文芸批評、哲学、認知科学などの議論や理論を巧みに取り込んだ、コミカルな小説を書いてきました。笑いながら勉強できる小説です。今回の作品も、この路線ではあるのですが、ちょっと趣が違っていて、「老いや死をどう受け入れるか」という重いテーマを、少し自伝的に書いています。

Lodge自身も耳が不自由らしいのですが、聴力障害のために早めに退職した60歳過ぎ元大学教授Desmondが主人公です。インテリア関係の事業を成功させ自信満々の妻、ボケかけている90歳近い一人暮らしの父親、思わせぶりな誘いをかけてくるブロンドのアメリカ人大学院生など、厄介な状況に取り囲まれ、Desmondは次々降りかかる困難と不格好に格闘します。本人にとっては悲惨な状況が、外から見ると滑稽。それが一人称の日記の文体と三人称の小説の文体とを使いわけて描かれています。

聴力障害によるコミュニケーション不全で夫婦関係もぎくしゃくし、夫としての自信や知識人としての自尊心が次第に失われていきます。しかしアウシュビッツ収容所の見学や父の死を経験することで、今生きている時間の尊さを再認識し、妻との精神的な絆を取り戻すことができます。おもしろうて、やがて悲しき、しかし最後には救いの光が見える、といったところです。

遠距離介護でくたびれるところや、老いていく親を見る焦燥感、そこから逃げ出そうとする自分への罪悪感など、まつこにはいささかぞっと身にしみて笑いきれない部分もありました。でも「今ある生を享受することで老いや死を受け入れることができる」という最終的なメッセージも、リアルな重みを持って伝わってきました。

Lodgeは小説の中に、幅広い分野から多くの引用をうまく使っています。今回はPhilip Larkinの詩が多かったのですが、私にとって印象的だったのはBruce Cummingsという動物学者の言葉。主人公の父親の葬儀の際に朗読されます。

To me the honour is sufficient of belonging to the universe -- such a great universe, and so great a scheme of things.  Not even Death can rob me of that honour.  For nothing can alter the fact that I have lived; I have been I, if for ever so short a time.  And when I am dead, the matter which composes my body is indestructible -- and eternal, so that come what may to my 'Soul', my dust will always be going on, each separate atom of me playing its separate part -- I shall still have some sort of finger in the pie.  When I am dead, you can boil me, burn me, scatter me -- but you cannot destroy me: my little atoms would merely deride such heavy vengence.  Death can do no more than kill you. (p.280)

死によって生命は絶えても、肉体を構成していた原子は失われず、この世に永遠に存在し続けるという内容です。自然科学者の目から見た「永遠」の概念が、ある種の宗教性をも帯びているのが面白いと思いました。

ちょっと説明が重くなりましたが、基本的には夫婦愛再生の物語でもあります。アウシュビッツで殺戮に加担してしまった男が妻に宛てた遺書も引用されているのですが、地獄のような現場から彼は妻にこう呼びかけます。

If there have been, at various time, trifling misunderstandings in our life, now I see how one was unable to value the passing time. (p. 265)

共に暮らした日々につまらない誤解がいろいろあったけれど、それは過ぎていく時間を大切にできなかったせいなのだ、そのことが今わかった、と死の際に夫は妻に後悔の念を語るのです。ウメマツもそろそろ人生の秋を迎えています。この時間を、日々、大切にしなければ、と改めて思わされる一節でした。

Photo_2 [ウメマツも人生の秋]

(ロッジの小説は高儀進さんという方がいつもうまい翻訳を提供してくれます。きっともうすぐ翻訳も出版されると思います。)

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2008年11月14日 (金)

水玉のハンカチ

まつこです。

やってしまいました・・・。授業中の誤訳wobbly。私は今学期、学生たちとHarry Potter and the Philosopher's Stoneを読んでいます。第1章、赤ん坊のHarryをDursley家の玄関先に置いていくときに、Hagridが別れを悲しみ、ハンカチに顔をうずめて嗚咽を抑えます。このハンカチは"a large spotted handkerchief"なのですが、これを「シミのついたハンカチ」とやってしまいました。イギリス英語では"spotted handkerchief"は伝統的な柄で、「水玉のハンカチ」なのだそうです。

なにしろこのHagrid、髪は伸び放題でもしゃもしゃ、顔中髭だらけの、無骨な大男です。おまけに「たまんねぇっす・・・可哀そうで、ちっちゃいハリーが人間たちと暮らさなきゃならねえなんて・・・」みたいな感じで、言葉もなまっています。このおじさんが取り出したのは、汚れたシミのついたハンカチだと、てっきり思い込んでしまいました。

でも読みすすめていくと、Hagridの持ち物には意外とかわいいものが混じっています。禁じられている魔法をこっそり使うときに取り出すのは"pink umbrella"です。Harryと一緒にロンドンに買い物に出かけていく列車の中では編み物をしますが、その毛糸の色は"canary-yellow"です。粗野な巨漢がピンクの傘を振り回したり、黄色い毛糸でせっせと編み物をする様子はほほえましいですね。

誤訳は次の週の授業で、訂正しました。「過ちを改むるにはばかることなかれ」が語学教師としてのモットーの私。しょっちゅう、「ゴメン、間違えました」とあやまっていますsad

Photo 今日の東京は久しぶりの晴天でした。とても気持ちのよいお天気だったので、仕事の後、大急ぎで電車を乗り継ぎ、葛飾区の水元公園まで出かけました。水元公園は中央に長く大きな池が横たわり、ポプラの並木や芝生が広がる美しい公園で、ロンドンのハイドパークにちょっと似ています。秋の日はつるべ落としで、あっというまに夕焼けに包まれ、水面を渡る風が冷たくなりましたが、気持ちの良い散歩ができました。

[水元公園も紅葉がきれいです]

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