哲学

2009年7月11日 (土)

自分探しはおやめなさい

ひさしぶりにうめぞう、いや、うめじいです。

自転車操業の日々が続いていて、なかなかブログを書く余裕がない。先週は還暦を迎え、自分の実家でささやかな祝い。これを機に、まつ子はうめぞうを「うめじい」と呼ぶようになった。はたしてこれがめでたいことなのか・・・

今週は従者としてまつ子の実家に帰省。久しぶりにのんびりと週末を過ごしている。男女の格差は昔と比べるとずいぶん縮まった。しかもまつ子はわが上官だ。とはいえムコという立場はそれを補ってあまりあるほど圧倒的に有利だ。ヨメという立場とはまったく違う。いわゆる非対称性が厳然と存在する。ヨメはどちらの実家でも台所に立たねばならないとついつい感じてしまう。ムコは台所に入ると即座に追い払われる。座敷で仕事をしていても罪意識はまったくない。それどころか1時間に1度、茶菓が運ばれてくる。自宅ではとてもこうはいかない。うめじいには、まずは理想的環境といえる。母君はたしかに物の名前などは出てこなくなり、独り言が多くなった。でも今のところ、表情はおだやかで、笑顔もよく見られる。もともとバカボン系のうめじいには物の名前などたいした問題ではない。タイがヒラメでも、キュウリがナスでも、人間、笑って過ごせれば「それでいいのだ」!

ところで最近よく「自分探し」という言葉を耳にする。2年ほど前には「自分探しの哲学」なる本も出た。その副題には「ほんとうの自分」と「生きる意味」と書かれていた。昨年には、自分探しに伴うさまざまなリスクについて警告した「自分探しが止まらない」という本も出版されている。

自分でも知らない「ほんとうの自分」がどこかに存在しているはずだ。それを探し当てて、本当の自分に出会うことこそが生きる意味だ ― この考え方は哲学史的に、なかなか面白い問題を含んでいる。

「本当の自分」というときの「本当」とはどういう意味か。

これには大きく分けて二つの系譜がある。ひとつは他者に対して嘘をつかないという意味での「正直さ」「誠実さ」だ。ドイツ語ではAufrichtigkeit(アウフリヒティヒカイト)、英語ならsincerity(シンシアリティ)という言葉になる。そういえばシンシアリー・ユアーズは、英語の手紙の末尾に書く言葉として、うめじいも中学生の時に習ったことがある。裏腹なく、心の底から私はあなたのもの、ということだろうか。

これに対してもう一つの系譜は、他者に嘘をつかないというのではない。自分自身を心の奥底で動かしているものをそのまま表現するという意味での「真正さ」だ。これはドイツ語でも英語でも同じ語系でAuthentizität(アウテンティツィテート)/authenticity(オーセンティシティ)という言葉で表現する。その形容詞形であるアウテンティッシュ/オーセンティックは、骨董品や絵の真贋、ヴァーチャルリアリティではない生の現実といった意味でよくつかわれる。日本語で近い言葉をさがせば「正真正銘」という感じか。

「正直」と「正真正銘」。この二つはどう違うか。一番の違いは「社会性」の有無だ。「正直さ」は他者との関係の中でのみ問題になる。一人だけの生活ではそもそも成立しない。自分に対する正直さというのは、自分自身の中に一人の他者を設定してはじめていえることだ。これに対して「正真正銘」というのは、自分の情動をそのまま表現しているということで、一人だけでもなりたつ。

たとえばうめじいは、お酒などを飲むと突然、ドン・ガバチョになりきって「みなさーーーーん、私、ひょっこりひょーたん島村長は・・」と演説を始めることがある。まつ子からは、「恥ずかしいから、お願いだから人のいるところでやるのはやめてね」、と固く言い渡されている。なぜかというとまつ子のパパが正真正銘のドン・ガバチョ一号だったからだ。このパパは長年難病を患ったあげくに2年ほど前に他界した。他者に対して「正直」であったかどうかは大いに疑問だが、つねに「正真正銘」であった。心の思いのままに生きたのである。

最近では、うめまつ、大のお気に入りの絵莉さんパパの南極物語(北極だったか?)がまさにこれだ。本人はまったくなりきっている。そんな時、うめじいも、まつ子パパも、絵莉パパも、正真正銘ドン・ガバチョであり、探検隊長なのだ。それは社会的文脈に生きる人からはバカバカしい冗談であったり、嘘であったり、逸脱であったりする。だからそれを周囲は「恥ずかしい」と感じる。この「羞恥心」を呼び起こすという性質が、「正真正銘」のひとつの特性なのだ。これは「正直」の方には見られない。

哲学史では、18世紀の半ばくらいに、「本当の自分」の定義が、「正直」さから「正真正銘」さに変化したのではないかといわれている。難しく言うと、それ以来、本来的自我が非社会的存在として表象されるようになった、というわけだ。うめじいは、その最初はルソーではなかったかと睨んでいる。ルソーの『人間不平等起源論』が設定する原初の人間は、孤立した非社会的存在だった。同じ時代でも、アダム・スミスの『道徳感情論』は、「本当の自分」をあくまで他者の視線にさらされている存在と見ていた。スミスはまだ「正直」派なのである。このあたりがイギリスと大陸の近代化の様相の違いかもしれない。ルソー、(カント)、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーと続く系譜は、うめじいの目には、自我の本来性を非社会化していく哲学運動に思える。カントをカッコにいれたのは、別の側面のカントを最近強く感じるようになったからだ。

さて、哲学者の中には、この二つの系譜を時系列ではなく、人間の本質につねに潜む二つの衝動として理解すべきだという人もいる。プレスナーという哲学者は「本当の自分を知ってほしい」衝動と「本当の自分を隠しておきたい」衝動がつねにせめぎあっているのが人間だと考えた。

さて、うめじいの立場はどうか。これはわりあいとはっきりしている。正真正銘派の自我理解は、近代的な自我形成の重要な転換であったが、惜しむらくは、それを人間存在の「本質」とみたところで失敗した。それはひとつのパフォーマンスとして、しかも非一貫的で非体系的なパフォーマンスとして解釈すべきだったのである。だからうめじいの主張はこんな風になるかな・・・

みなさーーーーん、「本当の自分」なんてものは、ありません。そんなもの探すのは、おやめなさい。井上陽水も言っています。「探すのをやめたとき、みつかることもよくあることで・・・」と。人生は一幕の芝居。本当の演技と嘘の演技があるのではありません。うまい演技とへたな演技があるだけです。誠実な芝居と不誠実な芝居があるのではありません。面白い芝居と、つまらない芝居があるだけです。みなさーーーん、たがいの人生を面白い芝居にするために、巧みな演出をしましょう。ひとりよがりはいけません。観客の笑顔が唯一の報酬です。自己憐憫はいけません。涙は楽屋で流しましょう。さまざまな人が作りだす様々な場面での役割の総体、それが強いていえば自分です。でもそれを一つの言葉で呼ぶ必要があるでしょうか。いわんやその自分の「本質」などについて語る必要があるでしょうか。それはすでに芝居のルールに反します。南極隊の隊長にはともに越冬する隊員が必要です。迫真の演技で隊員を演じましょう。会議のときには論客を演じ、恋人と一緒のときには誘惑者を演じ、介護のときには看護師を演じ、市民としては公正な社会建設のための役柄を演じ、子供の前では親を演じ、生徒の前では教師を演じ、周りに誰もいなければ、のんびりした御隠居さんを演じましょう。みなさーーーん、これは正真正銘、ドン・ガバチョになりきったうめじいのシェイクスピア礼賛でーーす。これ以上続けるとまつ子に「お願いだから、恥ずかしいからやめて!」といわれまーす・・・

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2009年6月13日 (土)

Nさんの哲学修行

うめぞうです。

前にも何度か登場したが、パリに留学している若い友人夫婦がいる。S君とNさんという、磁石のような組み合わせで、じっさい磁力で引き合っているようにいつでも一緒にいて興味関心を共有している。二人とも、もう一人前の医者だが、今はパリの大学で哲学を勉強中だ。二人はうめぞうのことをいまだに先生と呼ぶが、こちらはもうずいぶん前から教えることなどなくなっている。いまや、こっちが教わる番である。

 最近Nさんがこれから勉強する予定のテーマをメールで知らせてきた。なんでもフッサールという哲学者の学問論をカントと対比しながら研究するそうだ。なぜかというと、「現象学的還元により、認識論の問題を人間の超越論的主観性の問題として読み解いた手法に感心した」からだと書いてある。

 これを読んでなるほど、と思う人は業界関係者とみていいだろう。現象学などという言葉も耳慣れないが、超越論的主観性などといわれても、なんのことかとんと想像もつかないのが普通だ。

 どの業界でも業界用語というものがある。その道に何年か身を置いていると、仲間内で通じる符牒を使って話をするようになる。その方が簡便だし、正確に事が伝わるから、それ自体としては悪いことではない。ただそれによって同業者同士が秘密結社に入っているような安心感や、場合によっては特権意識もわいてくる。だから仲間内では「現象学ってどういう意味なの」などとは聞きにくい。自分の無知をさらけ出すことになるし、また相手に正確な説明を求めるのも、すこし挑発的な感じがするからだ。

 しかし、どの業界でもこれが落とし穴になる。知らず知らずのうちに、自分たちの周りに昔のギルドのような障壁を作ってしまう。だから、医療でも哲学でも仲間内の符牒を門外漢にわかりやすく説明するトレーニングは必要だ。

 そんなわけでうめぞうも、Nさんのメールを読みながら、あらためて現象学ってなんだっけ、と考えてみた。ところが、これがなかなか難しい。基本的には、現象に即して現象を記述する方法なんだろう、と想像はつく。ところが、そこでいう「現象」とはなにか、現象に「即して」というのはどういう意味か、などとつっこみをいれると、答えは哲学者によってずいぶん違ってくるようだ。

 現象に即して、というからには、即さない記述方法があること、つまり現象にそぐわない視点や記述方法を外から持ち込んできて現象を切りとってしまう可能性が想定されている。つまり、先入見や色眼鏡をつけて現象を見てしまうということだ。しかし、何が色眼鏡になるのか、ということについては、時代によっても人によってもさまざまな意見がある。

 カントは、人間がかかわる世界を現象界と叡智界に2分した。現象界というのは、われわれが感覚器官を通じて経験し、先天的な知性の形式に基づいて整理した世界のことだ。まあ、自然科学が相手にする世界と考えておけばいいだろう。そこでは因果律が通用している。他方の叡智界は人間の自由な決断や行為が問題になる世界だ。だから当然、叡智界の出来事については道徳的責任が問われる。つまりそこでは因果律ではなく、道徳律が通用している。

 カントはこの二つの世界を区別し、その混同を禁じた。天変地異に対して人間は道徳的責任を負う必要はないし(クライスト『チリの地震』)、逆に、他者の人格を利害関係の因果律から判断してはいけないというわけだ。だからカントにとっての現象学とは、とりあえずはこの二つの世界のうちの現象界のできごとを、その枠組みの中で分析する方法ということになるだろう。

 ちなみにカントが素晴らしいのは、この二つの世界をきっちり区別した点もさることながら、現象界だけでなく叡智界を、人間理性がかかわるべき主要な分野だと主張した点にあると、うめぞうは思っている。二つの世界を区別したうえで、哲学は厳密な論理が通じる場面にだけ責任を持てばいいというのではない。自由意志に基づく道徳的行為や他者の人格尊重に対しても理性は責任をもつべきだと言っているのだ。

 さてこれがヘーゲルの精神現象学となるとずいぶん趣が違ってくる。ヘーゲルは主体と客体が相互に関係し合い、互いに相手を形作りながら、高めあって成長すると考えた。われわれの意識が石を彫って石像を作れば、客観世界に主観世界が刻印される。しかし同時に、その労働を通じて、主体は石の硬さを思い知らされる。思い通りにはいかない現実に直面して、子供の夢想は大人の現実感覚へと鍛えられる。それによってさらに美しい石像が彫れるだろう。こうして意識は意識ならざるものと出会い、格闘し、より高められた形で自らに戻ってくる。だから、現象界と叡智界はカントが言うほど画然と区別はできない。客観世界と主観世界の相互行為によって自己自身を鍛え上げていく発展運動全体を、ヘーゲルは精神と名付けた。だから精神の発展を、その成長過程に即して記述していくのがヘーゲルの現象学といえるだろう。

 しかし、世界史をまるで巨大な主体の成長過程や予定調和の歴史のように記述するのは、いかにも観念的だ。19世紀の資本主義と科学技術の発展は、こんな観念論では説明できなくなった。予定調和の期待は階級闘争によってくつがえされ、精神の自己反省は実証科学にとってかわられた。科学の対象にはならないと思われていた意識や心理現象まで実験心理学の素材に格下げされた。人間の主観性や論理も、所詮は心理法則の反映にすぎない。

 ・・・かに思われた時に、フッサールが登場する。フッサールは意識の対象は、あくまで意識の志向性が生み出す観念内容だと考えた。だからその対象が本当に実在するかどうかについては、判断を保留せざるを得ない。しかし意識するという作用そのものは、たしかに実在する。だからコップがそこにある、というのは、正確に言うと、コップがそこにあると意識している私の意識作用があるということだ。

 でも、そんなめんどくさいことをいつも考えていたら、頭が変になってしまう。だから私たちの自然なものの見方では、意識の前提条件をなしている作用のことなど気にしない。しかしフッサールは自然なものの見方をいったん停止して、その前提となっている意識作用を反省してみることを提案した。これを現象学的還元という。

 意識や認識の前提条件をなしているものを反省することを、哲学では超越論的行為と呼んでいる。現象世界の存立条件を超越論的自我に求めたのは、カントの『純粋理性批判』だった。そうしてみると、フッサールはカントの光の下で、先入観や色眼鏡に曇らされない認識を得るために、超越論的主観性の現象学的記述を行ったといえるわけだ。

 Nさんの先のメールにあった「現象学的還元により、認識論の問題を人間の超越論的主観性の問題として読み解いた手法に感心した」というのは、そういう意味だったろう。

 しかし本当に現象学的還元なんてできるんだろうか、とうめぞうはいつも思ってしまう。坐禅を組んでいる禅のお坊さんだって、たぶん、人間の意識について、現象学的還元を行いながら、意識の超越論的条件について考えていたんだろう。自分の思考について思考するという、こうした反省能力が人間の自由の源泉であることはまちがいない。でも、一人でどんなに反省してみても、しょせんはその人が考えることだ。しかも、その反省行為は言語を媒介としており、その言語はある文化の中で他者との意思疎通を通じて身についたものだ。先入観や色眼鏡は、人間の認識装置にはじめから備わっていると同時に、具体的な生活経験や他者との交流の中でも作られていく。だとすると、その修正もやはり自分一人の内省だけでなく、他者によって指摘され、批判され、他者との共通経験の中で修正されていくべきだろう。しかしNさんによれば後期のフッサールは、そんなことも十分にわかっていたようだ。

 他者とのやりとりから、自分自身の視野の修正を行っていく方法についての学問を解釈学と呼んでいる。だから超越論的主観性の現象学的記述は、たえず解釈学によって補われる必要がある。これが弟子のハイデガーの仕事になった。しかしNさんによれば、晩年の『ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学』という書物には、「学問の方法の基礎を人間の相互主観性、相互行為に求める」視点がちゃんと提示されているという。客観科学といえども生活世界の実践から生み出された主体の産物だ。そして生活世界は超越論的主観性の上に築かれている。それが忘れ去られていることに、フッサールはヨーロッパの学問の危機を見ていたというわけだ。

 こうしたフッサールの先取的な認識を、カントに戻りながら、そしてハイデガーとは違う方向で、うまくとりだすことができれば、とても有意義な論文が書けそうだ。うめぞうは、今からNさんの論文を楽しみにしている。

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2009年4月27日 (月)

カントの平和論

うめぞうです。

カントに「永久平和について」という論文がある。

ちなみに、これまでの日本語タイトルはほとんどが「永遠平和のために」となっている。永遠、永久、恒久などの表現は趣味の問題として、ドイツ語の Zum ewigen Frieden の最初の前置詞を「・・・のために」と訳してきたわけだ。もちろん、そんな意味にも取れるかもしれないが、うめぞうの貧しいドイツ語力では「・・・について」というくらいの意味に感じられる。英語では単にPerpetual Paeceというタイトルで訳されているようだ。このzuは本や論文のタイトルとして「Zur Dialektik bei Adorno und Hegel」(アドルノとヘーゲルの弁証法について)といった具合に今日でもよく使われる。

まあそれはたいした問題ではないが、この小冊子は、とても200年前に書かれたとは思えないほど、今でも読み応えがある。カントが最終的に目指すのは、世界市民的憲法状態。いわば、世界のどこにあっても、一人の人間が尊厳ある個として、不可侵の自由と平等な権利を保障されている、法の支配がいきわたった世界状態だ。

これが一国内ですら難しいことはわれわれが日常的に経験していることだが、ここに主権国家が介在すると、問題は飛躍的に難しくなる。法の支配がいきわたるためには、違法行為をとりしまるための強力な権限や権力を、市民の合意に従って誰かに一元的に委譲しなければならない。たしかに自分の身は自分で守るという基本権は万人に保障されてしかるべきだ。しかし、みんなにそれを認めていると、つねに潜在的な敵対状態が生じる。場合によっては、機先を制して先制攻撃に出る人もいるかもしれない。だから自分の身を自分で守る基本権を万人に保障するためには、自分の身を自分で守る基本権の一部をたがいに放棄しあうことを市民が約束するしかない。これが社会契約という考え方だ。

たとえば日本であれば、市民は法に基づく武力行使権を警察に委ねている。だから、どんなに不条理な行為に対しても、一市民が「天に代わって成敗してくれる」というわけにはいかない。これが昔の西部劇の世界なら、自分の身は自分で守らねばならないから、銃の所有、および自己防衛のための銃使用は個人の基本権に属する。だから、ヒーローであるさすらいのガンマンは、法ではなく、自分の正義感にもとづいて銃を行使する。今でもアメリカの銃規制が問題になると、抵抗勢力にはこの時代の記憶が蘇るようだ。

しかし、これが主権国家の集まりである国際関係となると、こうはいかない。世界の警察機構に武力行使の権限を一元化するなどというのは、まったくの夢物語だからだ。そこでカントは理論的には必然性のある世界共和国の設立を当面あきらめて、平和を愛する共和国間の平和同盟からはじめることを提唱した。先ずはそこからはじめて、加盟国を徐々に増やしていくという方針だ。高邁な理論と厳しい現実のハザマにあって、カントは理論の一部を、現実論に即した形で修正したーーこんなふうにカントの論文はこれまで読まれてきた。

これについては、最近別の読み方も提唱されている。世界市民的憲法状態を実現するには世界共和国を設立するほかない、というカントの思い込みは、じつはカントが共和国のモデルとして、誕生したてのフランス共和国を念頭に置いていたために生じたというのだ。そこでは国民国家の主権の不可分性が前提とされていた。もし同じ共和国でも、主権が様々なレベルに分散していたアメリカ合衆国をカントが念頭においていれば、全体の議論はもうすこしちがったものになっていたはずだ、というのである。

うめぞうはこの鋭い指摘に大いに感心し、終わらない戦争を終わらせる理論的可能性について、あれこれと考えている。

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2009年4月15日 (水)

もっと抽象的に?

うめぞうです。

新しい職場に変わって、やはり最初はばたばたと忙しい毎日が続いている。今日はまつこが「そろそろブログ、おねがいね」と言い残して出勤していったので、ひさびさにペンを執る、いやキーボードをたたくことにした。

私の友人に著名な数学者がいる。教科書にも名前が出ているくらいだから、世界的な仕事をしたのだろう。ときどき「素人にわかりやすく言うと、だいたいどんな仕事をしてるの?」と彼に尋ねてみる。「今は、とんがり帽子をさかさまにして、球をつめると何個入るかという問題を考えてる」、「ただし、3次元じゃなくて、次元をもう少し上げていったときのことをね」などという。いったい4次元のとんがり帽子に球を詰めるということが、そもそも何を意味するのか、素人のうめぞうにはまったく想像がつかない。

そんな彼に、かつて「君のいうことはわかりにくいから、もうすこし抽象的に言ってくれないか」と言われたことがある。ふつうは、「君のいうことはわかりにくいから、もう少し具体的に言ってくれないか」というものだろう。彼から見ると、具体的なことは不規則で、個別的で、一般性に欠けるために、ずっと厄介なのだそうだ。抽象性というのは、個々の差異を振り落とすところがある。そのぶん、すっきりとしていてわかりやすい、と彼は言う。なるほど、いかにも数学者らしい意見ではある。

哲学というのは数学と同じように、一般には抽象的なものだと思われがちだ。哲学とは言語を用いた数学ではないかと思う人もいるかもしれない。理想の国家を夢見たプラトンもピタゴラス学派の数学的世界像と触れ合ったことによって、完璧な理念の存在を信じるようになったふしがある。この思想はその後の西洋哲学史に、少なからぬ影響を与えた。

しかし、一般に哲学が抽象性を相手にする時には、数学者よりはもうすこし用心深く構えるのが普通だ。この友人が見落としていることは、「具体的なもの」と「抽象的なもの」という対立とは別に、「実体的なもの」と「関係的なもの」という対立が存在していることだ。貨幣の哲学に興味を持つ最近のうめぞうは、この二つの対がどのように関係し合っているのかを考慮中だ。

これまでの経験からすると、この友人にこのことを聞けば、いとも簡単に、「そりゃ、具体的なものが実体的で、抽象的なものが関係的なものでしょ」と答えるにきまっている。ところが実際には、昨今のマネーゲームを見てもわかるように、抽象的なものは、たえず実体的なものに転化する。万物との交換可能性という抽象的な関係概念であるはずのお金が、拝金主義の対象となる。このメカニズムが、この友人にはなかなか通じない。これをうまく説明したいと思いながら、うめぞうも、この二つの概念対がどのように関係しているのか、なかなかわからない。だから「もう少し抽象的に説明してよ」といわれてしまうのである。

フランスに勉強に行っている医者兼哲学者である若い友人夫婦が帰国したら、このあたりのことを議論してみたいと思っている。

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2009年2月 9日 (月)

マルタとマリア

うめぞうです。

前にも書いたがうめぞうには躁鬱の傾向がある。ここ一週間は、どうもまつこのプチ鬱が感染したらしく低迷中である。ただし、季節も大いに関係しているようで、梅がほころび、彼岸を迎えて沈丁花が薫ってくる頃には再び高揚期に入る。そんなわけで、今日はお笑いネタではなく、ちょっと趣向を変えて聖書の話である。

ルカ伝10章には、聖書の中でも最も感動的な話のひとつである「よきサマリア人」の話がのっている。それに続いて紹介されているのが、今日取り上げるマルタとマリアという姉妹の話である。

聖書にはマリアという名前の女性がいろいろ出てきてまぎらわしい。まずはイエスの母親のマリア様。これは一番有名人なのでわかりやすい。あとはマグダラのマリア、マリア・マグダレーナという女性。ちなみに、母親のマリア様は、絵画ではたいてい紺色系のマントを羽織って登場するが、マグダレーナさんのマントは朱色系が多い。このマグダレーナさんは、どうもイエスの恋人、ないしは妻だったんじゃないかという説もある。ダビンチの最後の晩餐でイエスの横にいるのも、使徒ヨハネじゃなくて、マグダレーナだったという人さえいる。なにしろ復活したイエスが、12人の弟子たちをとびこして、最初に会いに来られた人だ。不謹慎な類推を許していただけるなら、やはりうめぞうだって、復活したらまずはまつこに会いに来るにちがいない。ただ、うめぞうの場合は気が弱いから、まつこの横に男がいたりすると、すごすごと冥界に戻っていくかもしれない。自分よりいい男でもなんか面白くないし、自分よりブ男だと、もっと腹が立つ・・・。うーむ。

本題に戻ろう。あとは、ヨハネ伝8章に出てくる罪の女。学者や宗教指導者たちが、姦通罪で捕えられた一人の女性をイエスの前に引き出し、「モーセの律法によれば石打の刑で殺すべきではないか」とイエスに迫る。ここでのイエスの答えは、新約聖書のハイライトのひとつだろう。「なんじらのうち、罪なき者、まず石をなげうて」。すると一人一人、その場を立ち去って誰もいなくなる。そしてその女性にイエスは「われもなんじを罪せじ。ゆけ、この後ふたたび罪を犯すな」と言う。あるいはルカ伝7章には罪あるひとりの女(これも姦通や売春を示唆する表現)がイエスの足を涙でうるおし、自分の髪でこれを拭い、口づけして香油を塗ったという記事がある。自分の涙と髪で先生の足を拭い、今でいえば超高級香水で、おみあしを清めるというのは、尋常ならざる感謝と情愛の表現だ。

この女性こそ、あのマグダレーナだったんではないかという説は昔からあって、実際グレゴール一世という教皇が認めたこともある。そんなわけで、たとえばかつて売春などで生計を立てていた女性たちの援助更生組織などにマグダレーナの名前が使われたことがよくある。また絵画などでは妖艶な娼婦の姿で登場することもある。

そして第三のマリアが、今日取り上げるベタニアのマリア。ラザロという兄弟とマルタという姉がいる。ヨハネ伝11章によると、これはあの髪の毛で足を拭い、イエスに香油を塗った女性だと説明されている。となると、マグダラのマリアとベタニアのマリアは同一人物?という疑問もわいてくる。じっさい西方のローマカトリックと、東方のギリシャ正教は、ながらくこの点で見解が分かれていた。東方では、最初から別人説だったが、たしかに普通の読者として聖書を読むと、この姉妹とマグダレーナさんは、性格も出自もかなり異なるように感じられる。ローマカトリック教会も第2バチカン公会議(1962-65)以降、別人物説になったようだ。

ともあれイエスはこの3人兄弟姉妹をとても愛していたようで、ラザロにいたってはイエスのおかげで死人から蘇っている。聖書によると、この奇跡が当時の宗教指導者に衝動と動揺を与え、イエス殺害への謀略に火をつけたようだ。

このマルタ姉さんと、妹のマリアの関係が面白い。ルカ伝10章は、イエスの一行が自分のところにやってくるというので、姉さんのマルタが「饗応のこと多くして、心いりみだれ」と書いている。接待準備でてんてこまいしているのである。ところが妹のマリアの方はいっこうに姉を手助けする様子もなく、イエスの足もとに座ってただイエスの言葉に耳を傾けている。そこで頭にきた姉さんがイエスに直訴する。「主よ、わが姉妹、われを一人のこして働かするを、なんとも思い給わぬか。かれに命じてわれを助けしめたまえ」。ちょっとは、妹にも台所を手伝うように先生からもおっしゃってください、というわけだ。それに対するイエスの答えがまた意表を突く。「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思いわずらいて心づかいす。されど無くてならぬものは多からず。唯一つのみ。マリアは善き方を選びたり。これはかれより奪うべからざるものなり」。

食事の準備は、どうしても間に合わなければ不十分でもいいじゃないか。豪華な食事はまた明日でもできる。しかし今、自分の言葉に心を打たれ、信仰に目覚めるのであれば、それはもう二度と到来しないかもしれない瞬間ではないか。今、その瞬間に立ち会っている妹に不平不満をぶつけてはいけないよ――うめぞうにはイエスの言葉がそんな趣旨に聞こえる。たしかに、はっとさせられる話ではある。しかし、やはりどこかに割り切れない思いがある。何事につけ高邁な理想を夢見る人より、日々の雑用を黙々とこなす実践者こそが、最終的には問題解決により近い場所にいる、というのがプラグマティストうめぞうの基本信条だからだ。

うめぞうはクリスチャンの両親のもとで育ったから、小さい時から、日曜学校でこの話はよくきかされた。しかしこの話を聞くたびに、イエスの言葉より、マルタの気持ちの方により強く共感できた。これまた不謹慎な想像を許していただければ、うめぞうが嫁さんにするならマルタの方だと、今でも思っている。しかし多くの男性には、マリアの方が恋愛対象として素敵かもしれない。自分のやりたいことをやりとおし、ちまちましたケチくさいところがない。ゴージャスである。ヨハネ伝によると、このマリアは、ばか高い混じりけのない香油を愛するイエスに惜しげもなく振りかけて、のちにイエスを裏切ることになるユダから「そんなにもったいないことするなら、この油を売って貧乏人に施すべきだ」と皮肉をいわれている。

マルタとマリアの話はまた姉と妹の関係を示唆する話としても、じつに含蓄が深い。社会的にものを考え、犠牲的精神でてきぱき事を処理する合理主義者の姉さんと、やや現実感覚に乏しく、大胆かつ情熱的なロマンティシストの妹。それぞれ素敵な女性たちではあるが、さてみなさんはマリア派?それともマルタ派?マリアを嫁さんにしたい派?マルタを嫁さんにしたい派?

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2009年2月 2日 (月)

4つの原因

引き続きうめぞうです。

まつこは今晩帰京し、夫婦、ひさしぶりの再会となる。まつこは出張中も携帯でブログを読んだとのこと。声の調子から判断して、徐々に上向きになっているようで、まずはひと安心。

さて、以前、アリストテレスのことを書きかけて中途半端に終わった。なにしろ万学の祖。知の巨人としては圧倒的存在。どんなことでもたいていはアリストテレスがすでに考えてしまっていて、しかもまっとうな答えを出しているといわれるくらいだから、浅学非才の徒としては、ほんの聞きかじり程度のことである。テーマはアリストテレスの4原因。

たとえばわれわれが家を建てるとき、その家がたつ原因となるものにはどんなものがあるだろうか。ここで「原因」という言葉がすでに問題だが、とりあえずここでは「理由」や「条件」といったものも含む広い意味で理解しておこう。

まずは家が建つためには家を必要とする人がいて、家を建てるという目的を設定していることが必要だ。誰かが目的を設定しないまま突如として家が出現することはないだろう。そこでこれを目的因という。「目的」を「原因」と混同するというのはちょっと不思議な感じもするが、これはわれわれの日常言語でもよく見られる現象だ。たとえば「彼は風邪のため欠勤した」という「ため」は原因を、「彼は葬儀のため欠勤した」の「ため」は目的を表現している。でも、われわれはその違いにほとんど気付かないのが普通だ。

次には家が家であるためのもっとも本質的な設計図が必要だ。家が出来る前に、まず家とは何であるか、家はどうあらねばならないかという形(形相)が、家を建てる人の脳裏に浮かんでいなければならない。そこでこれを形相因という。この漢字はギョウソウではなく、ケイソウと読む。

さて次には家を作るための材料がなければ始まらない。そこでこれを質量因という。

そして最後にこの素材を加工し組み立てていく労働が必要で、これを動力因という。この4つの原因が協働してはじめて家ができあがる。

興味深いことに、アリストテレスは、この4つの原因を、ある程度独立した要素と見ていた。しかし人間の理性は悲しいことに、どうしても究極原因を求めたがる。たとえば中世のキリスト教神学は、このうちの目的因を究極原因と見なした。もちろん目的を設定するのは神である。創造主の目的こそがあらゆるものの第一原因で、その他のものはそこから派生したという説明だ。これに反旗を翻した近代科学は、今度は動力因を第一原因と見た。ニュートンの運動方程式が第一原因で、あらゆるものは自然法則を出発点にしているという考え方だ。原理主義的神学も自然科学主義も、単一の原因からすべてを説明しようとする理論戦略では軌を一にしているわけだ。

この対立は現代にまで及んでいて、いまだに自然科学にも哲学にも、この究極原因についての共通理解があるわけではない。それでも近頃は、自然を記述する因果論と、自由意志をもつ人間の相互行為を律する目的論は、領分の異なる、相互補完な理性のルールであり、どちらか一方を他の原因とみなす考え方は好ましくないと多くの人が考えるようになっている。アリストテレスの復権である。頭の中でつい単一の究極なるものを求めて、極端に突っ走る人間の弱さを見抜き、何事につけ中庸の徳とバランスを重視したアリストテレスの偉大さを、現代哲学はあらためて見直しているというわけだ。

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2008年12月 2日 (火)

プラトンとおでん

うめぞうです。

以前、プラトン主義について書いたところ、まつこが得意満面で質問してきました。「うめぞう!あの三角形のおでんの話はよくわかった。プラトン主義、面白い。でもあの三角形のおでんのコンニャク、あれって、おそ松君でしょ。いや、天才バカボンかな。どっち?」。

こいつ、本当に問題のホンシツ、わかってんのかなあ、と思いながらも、「コンニャクの三角形」からわが内なる赤塚不二夫を探り当てるとは、やはりまつこは甘く見てはいかんぞ、と思い直しました。

すると今度は超ド級の質問。「ねえ、プラトン主義の反対は何?」

よっぽど「ぎしゅんとらぷ」と答えておこうかと思いましたが、これではまるごと赤塚不二夫になってしまうので、「まあ、しいていえばアリストテレス主義か・・・」。

「じゃあ、今度はアリストテレスについて書いて。やっぱり二大政党制にしないとね。」

どうもまつこは、プラトンとアリストテレスを麻生と小沢みたいに考えているらしい。でも、あなたねえ、気楽に言うけどアリストテレスについてちょっと一言とはなかなかいかないんだよ、と口に出そうになったのをぐっとこらえて、こういう質問にはそれなりのレベルで答えられないといけない、週刊こどもニュースを見よ、けっこうあれは勉強になるぞ、と自分に言い聞かせる。

さてそこで次回はアリストテレスについて少し書くことにしよう。今日はそのための準備。

プラトンは実在する不完全な三角形(おでんのコンニャク)よりも、魂の目に映るその純粋な形の方が、より本質的な存在だと考えました。形といっても、からなずしも幾何学的な形だけではなく、一般に物のあり様といったほうがいいかもしれませんが、哲学ではこれを形相などといいます。ただしこれは「あの人はすごい形相で私をにらんだ」というときのギョウソウではなく、ケイソウと読みます。

アリストテレスは、この点ではプラトンとは違って、実在する個物を個物たらしめている形相は、個物を超えたイデアの世界にあるのではなく、あくまで個物と不可分な可能性として個物の内にあると考えました。たまごの中にヒヨコが隠れているように、いつかそのあり方は外に向かって現実となります。そう、プラトンが数学っぽい世界観だとすれば、アリストテレスはわりと生命主義的な世界観をもっていたわけです。

そして、可能性としてあるものが現実のものとなる原因をアリストテレスは4つに分けて考えました。これについては次回に述べますが、いずれにしても、原因を複数個考えていたというのが今日からみると面白い。プラトン主義だと原因は究極的な一原因に帰着しがちです。どうしても最終原因といったものを考えてしまうからです。それは神であったり、物理法則であったり、場合によっては民族であったり、理性であったりしますが、いずれにしても、ある現象が生じる原因を単一のものに求める発想は、いろいろ危険な面があるのです。その点で、アリストテレスは、プラトンよりもプラグマティスト、現実主義者だと思います。

ちなみにわが家は、どちらかというとまつこがアリストテレス派、うめぞうがプラトン派ということになっています。続きはまた次回。

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2008年11月23日 (日)

アルツ哲学入門

うめぞうです。

まつこは、アルツのおっかさんの同じ話を何度も聞いて、少々気が滅入る時もあるようですが、私はその点では、もとい、その点でも、よくよく鈍感なのか、ほとんどストレスを感じません。よく「うめぞう、あんたはえらい!よくもまあ、それだけ、はじめて聞いた話のように相槌を打ったり、感心したりして聞けるもんだ」とまつこはあきれ顔で褒めてくれます。ムコ・ノーベル賞候補にまで推してくれる理由も、主にその辺の業績が評価されているようです。しかし時には心配そうに「ひょっとして、うめぞう、何度も聞いていること、忘れているんじゃないだろうね・・・」とアルツ2号誕生を恐れているふうです。

とんでもない。わたしだって、ハンカチをトイレに落とした時、母親が「そんなことでもなけりゃ、新しいハンカチなんかなかなか買ってもらえないんだから」と慰めてくれた話、この母君の曾祖母が彦根から嫁にきた家老の娘で、雪国がいやで四谷に移り住んだら、お化けが出たので舞い戻った話、少なくとも数十回は聞いていますよ。

ではなぜ、私がストレスを感じないのか。まずなんといっても、まつことは接触時間がまったく違いますし、実の親子でもないので、余裕をもって接することができるというのが一番大きな理由です。そしてこの母君がウィットに富み、リベラルで辛口なまつこと同じタイプ、つまりは私の好みの女性であるというのが第二の理由です。ですから私がとくべつ能力があるわけでも、偉いわけでもありません。

しかし、今日は、いままでまつこにも言ったことのない第三の理由を告白することにします。ちょっと誤解される可能性があるので、今まで口にするのがはばかられたのですが、実は私がストレスを感じないのは、この母君を、ちょっと失礼かもしれませんが、ひとつの哲学的関心をもって観察し、研究しているからなのです。時には不謹慎にも、小さな実験も行います。それは実に興味津津、現代哲学の最大の謎に接している知的興奮すら覚えます。

たとえば私は、その間に、母君がパターン化された想い出話しをし始めると、どこかの時点で、ふいに表情が豊かになり、元気が出て、それと同時に、表現にめりはりがつくようになることを発見しました。ただしそれは単に「近所の人がおかずをもってきてくれた」、「今日は御寺様が月行に来てくれた」、といった日常会話の中では起きないことなのです。そこには少なくとも二つの必要条件があります。ひとつはそれが「幼少期から思春期までの思い出話である」という要素。もうひとつは、それが「パターン化された物語としてそれなりに完成されている」という要素です。そしてこの二つが、物語っている母君に「表情」の豊かさと「表現」の豊かさを生み出すのです。

こういうと皆さんはちょっと疑問を抱くかもしれません。「パターン化されている」ことと「表現の豊かさ」とは矛盾するではないかと。私も最初はそう思っていました。しかし、パターン化されているにもかかわらず、実はよく注意して聞いていると語り方には微妙に毎回、違いがあります。たとえば、例の四谷でお化けに出会ったばあさんですが、通常のヴァージョンだと、田舎に舞い戻るときに、「この曾祖母の息子の嫁さんが、この家老の娘のことを、彦根から毛やりをふって嫁に来たから、なんでもヤリっぱなしなんだと言ってね」というフレーズと笑いが入ります。しかし、時にはこのフレーズが入らないこともあります。そんなとき、うめぞうはとっさに「ああそういえば、なんかケヤリがどうのこうのって話、ありましたねえ」とか、「ケヤリ振ってきたのは、その方でしたかねえ」という相の手を入れます。相の手を入れるこの行為は、この物語に新しい地平を開き、忘却の中から毛槍の家老の娘を呼び出します。実は、この技がまつこには苦手なのです。

相の手はパターン化されたものからあまり逸脱してはいけません。ちょっといつものヴァージョンから、かけているものを、さりげなく補ってやるのです。するとどうだ。ぱっと表情が明るくなって、毛槍の話が入りますが、そこから思いもかけない方に話が飛んで、今まで聞いたことのない新しい話が始ったりします。

「幼少期の思い出」「パターン化された物語」「表現の多様化」「相の手を入れる聞き手の問いかけ」「表情の豊かさ」「新しい物語の創出」。ここには何か、記憶力の喪失をただ嘆き、実用的な目的連関の中にもう一度母親をひき戻そうとするような努力を笑い飛ばす究極のユーモアがあります。わたしはそれを心から楽しみ、人間の素晴らしさ、面白さ、不思議さを日々味わっているわけで、ほとんどストレスなど感じないのは当然のことなのです。記憶力がどんどん落ちて行った時、実用連関では不便なことが増えるとは思いますが、これらの物語がいったいどんなふうに単純化されていくのか、不安な想像をするまつこをしり目に、うめぞうは知的好奇心をかきたてられているのです。

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2008年11月15日 (土)

プラトン主義

うめぞうです。

西洋の哲学はプラトンの著作への注釈にすぎない、などと言われることがあります。もちろんこれは誇張ですが、西洋哲学にはたしかにプラトン哲学のある側面がおもーく垂れこめていて、20世紀の哲学は、みずからのうちなるプラトン主義の払拭のために大部分の労力を費やしたのではないかとさえ思えてきます。

たとえば世界には、おでんのこんにゃくから、ゴチック教会の尖塔にいたるまで三角形をしたものが無数にあります。しかし、それらはすべて不完全な三角形にすぎません。完全な三角形とは、面積を持たない3点を、面積を持たない3本の完璧な直線で結んでできる図形でなければならないからです。しかし、そんな三角形は現実には存在しません。それはせいぜい、われわれの頭の中で思い浮かべられるだけです。つまり一つの理想、理念として存在しているにすぎません。しかしプラトンはこれを「完全な理念」と「不完全な現実」の対比としてとらえました。そして、現実に存在する三角形よりも、理念として存在する三角形のほうが、より完璧であるがゆえに、より普遍的で、より本質的だと考えました。一言でいえば現実よりも、理念を上位に置いたのです。プラトンがこのような考え方にいたったのは、ピタゴラス学派との接触を通じて、数学の理念を学んだからではないかとか、諸国漫遊の旅の途中でユダヤ人の一神教に影響を受けたのではないかとか、いろいろ説があるようですが、私は、数学との接触が大きかったと考えています。

ところで、こうした考え方には、良い面と悪い面があります。良い面は、不完全な現実に完全な理念や理想を対比させることによって、現実を少しでも良いものにしようとする理想主義の栄養源になりうることです。たとえば理念としての理想国家を頭の中に描き、その理念を満たしていない現実の政治を批判し、改善するという方向に向かえば、プラトン主義もけっして悪くはありません。

しかし他方、悪い面もあります。現実はどうせ不完全なものだから、そんな不完全な偶然的世界にかかわるよりも、永遠不滅の完璧な理念にかかわる仕事のほうが高級だ。現実の政治などはしょせんくだらない。哲学はもっと高尚な本質論に従事するのだ、という方向に向かうと、これは現実乖離をしたエリート主義的観念論に陥ってしまいます。

プラトン自身は前者の要素を強くもっていたと思いますが、不幸なことに後世のプラトン主義はその多くが、政治的理想主義よりも、むしろ非政治的な観念論に転落していきました。ニーチェを先駆者とする現代の哲学者たちは、この理念偏重のプラトン主義を批判し、哲学を現実に引き戻すために多大な努力をしてきました。

さて、わが家ですが、まつこと比べると、私の方が圧倒的にプラトン主義者です。私はもともと理系で数学が好きだったということも関係しているかもしれません。個別経験の多様性、偶然性を大切にし、楽しむまつこ、すぐに「要するに」と一般的、抽象的結論を求めたがるうめぞう、ふたりの議論は、ときに西洋哲学史の一断面のごとき様相を呈することがあります。

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2008年11月 4日 (火)

まつさんの百貨店めぐり

うめぞうです。

まつさんの趣味のひとつが百貨店めぐり。日本橋高島屋、八重洲北口大丸を拠点に、時には池袋西武、東武へも兵を進めているらしい。らしい、というのは、それについては完全な情報をつかんでいないような気がするからだ。

まつさんは勤め先での出来事や友人との会合などについて、食卓で実によく話しをする。だからまつさんの職場の友人がたまに遊びに来ると、小生が彼女の職場の細かな人間関係にまで通じていることにびっくりぎょうてんする。だから、夕食を共にしていると、まつさんのその日の足取りはおよそわかる。しかしどうも、こと百貨店通いと買い物情報については一定の情報管理をしているらしく、ときどきどこで買ったかよくわからない新しい洋服を着ている。べつにそのことをとがめているわけではない。夫婦だって、すべてを知り尽くす必要はないし、まつさんがどこでだれと会っていようが、どこで何を買っていようが、基本的にはあまり興味はない。話してくれることを楽しんで聞いていればそれで十分だ。しかし、どういうわけか、百貨店めぐりだけは、本人が「浮気感覚」でやっているのか、外へ出していい情報とそうでない情報をえり分けて話している向きがある。

その百貨店が生き残りをかけて必死の努力を続けているという。

その策の一つが、ファッション・コーディネイトだそうだ。客がたとえば「今の季節、銀杏並木を、おしゃれでスポーティな服装で散歩したい」といえば、頭のてっぺんから足の先まで、それふうの服装や帽子、靴などをそろえてくれるという。なるほど、これは小生のように、服装の知識やセンスがまるでない人間にはありがたいサービスだ。

たしかに、たまにまつさんに連れられて高島屋に行くと、百貨店といっても専門店へのテナントばかりで、これでは百貨店は貸店舗業と変わりない。専門店がそれぞれに分化し、進化していく中で、百貨店らしいサービスとなると、こうしたコーディネイト事業を深めていくのがいいだろう。

と、ここまで書いて、ふと気づいた。現代哲学の生き残り策も、これと同じではないか。個別科学に客を奪われ、いまやひたすら撤退戦を強いられている哲学も、ファッションコーディネイターの道を進むべきだ、と。これについては、次回もう少し詳しく書くことにしよう。

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