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2019年8月16日 (金)

シェイクスピア3作品

まつこです。

女性の積極的活用、性的少数者および障害者の包摂・・・これはどこかの政党のマニフェストではなく、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが今シーズン掲げたテーマです。この方針にそって演出には意欲的な試みが取り込まれていました。

まずは『お気に召すまま』。何人かの登場人物が男性から女性に変えられています。

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[終幕に突如現れた巨大なハイメンの前で踊る人々]

羊飼いの青年シルヴィアスは女性羊飼いシルヴィアになっているという具合です。そうなると美青年ギャニミードをあきらめたフィービーが結ばれるのは同性のシルヴィア。男だと思いこんで恋していた相手が男装した女だったとわかったあとで、別の同性愛者の女性と結ばれるわけです。もともとこの喜劇の特徴である男女の境目のあやうさとが強調されるのですが、うーん、ちょっとややこし過ぎるかも・・・。

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[若い頃になにかあったのかな?と思わせる暗いジェイクイズ]

人々の喜怒哀楽を離れたところから冷ややかに眺めているジェイクイズも、この演出では中年女性です。シニカルなジェイクイズも終幕の公爵との別れでは涙を流していたけど、ひょっとしてこの二人の過去には何かあったのかしら・・・?これも演出の意図がちょっとわかりかねるところでした。

お次は『じゃじゃ馬ならし』。

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[力づくで夫をならそうとするペトルーキア]

こちらは大胆に主要登場人物の性別をぜんぶまとめてひっくり返した演出です。ペトルーキオはペトルーキア、ルーチェンチオはルーチェンチアに。この二人の女性がお目当の夫をゲットするまでを描く喜劇になっています。

男が心理的および肉体的暴力で女を従わせるという展開のため、『じゃじゃ馬ならし』は「けしからん」作品と非難されることも多いのですが、母親たちに支配された母系社会に舞台設定することによって、その問題を解消しようという意図でしょう。しかしこの演出を見ていると、女から男への暴力なら許されるってものでもないのよね・・・と、あらためて疑問がわいてきました。かえってこの戯曲の問題点があらわになった気がします。

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[堂々たるコスチューム劇]

クリストファー・スライの出てくる外枠のインダクションはいさぎよく削除し、その代わりにチューダー朝に設定したコスチューム劇にすることで、物語との距離感を出していました。遠い時代の、非現実的なおとぎ話であれば、DV妻もマザコン坊やも許せる・・・かなあ?

あれこれ疑義は感じる演出でしたが、豪華な衣装に身を包んだ女性俳優陣の堂々たる演技は、さすがの出来栄え。数十年前にキャタリーナ役で見たアマンダ・ハリスが、バプティスタ役でどっしりした存在感を見せているのも嬉しかったです。

3本目は『尺には尺を』。

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[抑圧されていた性的衝動がむき出しになるアンジェロ]

もともと「問題劇」とされている劇ですが、緊張感がはりつめた暗い演出でした。なにもかも仕切ろうとする公爵はひとりよがりの権力マニアだし、欲望を抑え込んでいたアンジェロは屈折した偽善者だし、おしゃれと女にしか関心のないルーチオはヘラヘラした薄っぺらだし。ロクな男が一人もいない!

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[しっかり者のエスカラスに支えられるアンジェロ]

そんな呆れ返るしかない男性社会を支えるのはしっかり者の女。この演出ではエスカラスや典獄は女性で、良識ある職業人として描かれています。そうそう、こういう信頼できるワーキング・ウーマンがいるからなんとか社会がもっているのよね。1900年代のウィーンに舞台は設定されていますが、これは現代社会にも通じそうな真理です。

女性たちの活躍以外にも、『お気に召すまま』のおしゃべり男タッチストーンが尻をおいかけるオードリーは聾唖者で、ウィリアムが手話通訳をするとか、『尺には尺を』で婚前交渉して身ごもっちゃったジュリエットが車椅子姿で赤ちゃんを抱いて登場するとか、障害を持った俳優たちも堂々と舞台に登場していました。

シェイクスピア劇を「政治的に正しく上演」する試みを全面的に打ち出しているのが今シーズンのRSCです。その意気やよし。しかし、シェイクスピアの戯曲にはそもそもが虐げられた立場からあがる声が書きこまれている部分もあれば、ひどく差別的な言葉が吐き散らされる部分もあるわけで、そういう問題性を言葉の中から拾い上げる努力と、障害者を直接舞台に上げる意欲は、別次元のものであるとも感じました。車椅子の女優が巧みに舞台を動き回り、手話とセリフがうまくかみあうやりとりを見ていると、そこにドラマ性はあるのですが、それはシェイクスピアの戯曲の中から抽出されたドラマではない。障害を持った俳優たちが劇中の役を担うことに、何の違いも区別も感じなく日はくるのかどうか。それは今後の課題なのでしょう。

というわけで、あれこれ考えることも多いシェイクスピア3作品でした。

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