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2018年3月19日 (月)

時間・演劇・俳優:『ドレッサー』

まつこです。

先日、下北沢の本多劇場でドナルド・ハーウッドの『ドレッサー』(松岡和子訳)を観ました。老俳優と付き人の関係を描く、いわゆるバックステージものの芝居です。

この芝居を最初に見たのは1988前、老俳優が三國連太郎で付き人が加藤健一でした。今回はその加藤健一が老俳優を演じます。劇中、「役者は観客の中にしか生きられない」というセリフが印象的に語られますが、30年前の記憶が蘇ってきて、記憶の中の上演と目の前の上演が重なり合って、「時間・演劇・俳優」についてあれこれ思いを巡らせる観劇になりました。

Photo
[左が30年前、右が今年の上演のフライヤー。(両方ともネットで拾ってきた画像です)]

身勝手で、女好きで、奥さんに頭があがらない、根っからの役者バカ。こんな役柄がぴったりだった三國連太郎の記憶は鮮烈で、芝居の進行とともに、「ああ、ここではあんなふうに若い女優のお尻をなでてたなあ」、「ここではこんな表情で重量級の渡辺えり子のコーディリアをかかえあげたなあ」と、細かなことが思い出されてきます。自分でもこんなにはっきり覚えていたことにびっくり。

その天衣無縫な老俳優にぴったりと寄り添う付き人の加藤健一の生真面目な表情も、一緒に鮮やかに蘇ってきました。終幕、老俳優の遺体のそばにひざまずき、喪失感の中で呆然と佇んでいた若い俳優の記憶と、今、目の前で死んだ老人を演じている俳優の姿。その間に流れた年月が30年・・・。

演劇は美術や映画とちがって、時間の法則に縛られた芸術です。2〜3時間の芝居が終われば、残るのは観客の記憶だけ。その記憶もやがて観客とともにこの世から消えていきます。

だから地道な演劇史の研究もなされています。17世紀のバラッドや、18世紀の劇場ポスターや、19世紀の劇評を詳細に検証し、少しでも古い上演の記憶の破片を再生しようとする試みがなされます。でもそれはどこか、失われた時を蘇らせようとするのにも似た、見果てぬ夢を見る努力でもあります。

そうしたことを考えた時、「30年前にこの芝居を見た。加藤健一の付き人を見た目で、30年後に加藤健一の老俳優を見た」と言えるのは、稀有な幸運に思えます。俳優にとって観客の記憶に残ることが大切であるように、観客にとっても観劇とは、その場を楽しむと同時に、記憶を残すという経験に他なりません。そして「記憶する」というのは、他の誰かに代わってやってもらうことも、AIで置き換えることもできない、代替不可能な行為です。

映画なら繰り返し見ることができます。でも映画を繰り返し見ることは、次第に成熟していく経験です。1回目に見た時より、5回目に見る時には馴染んでいるのです。ところが1回しか見られない演劇の記憶は遠ざかるけれど、古くはならない。思い出す時には、1回だけの新鮮な体験として、時のかなたから引き寄せられるのです。

こんなにいろんなメディアが発達しているときに、演劇ってまだ生き延びるんですか、と学生に質問されることがあります。その難しい質問に答えるヒントがちょっとだけ見つかったような気がした『ドレッサー』でした。

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