« モーニング・グローリー | トップページ | 送別パーティ »

2016年9月 8日 (木)

ロンドン夏目漱石記念館

まつこです。

「ロンドン夏目漱石記念館」は以前から存在は知っていましたが、訪れたことがありませんでした。来訪者の減少にともない、今月末で閉館するという記事を読み、最後の機会なので行ってみました。

行く前からなんとなく「罪滅ぼし」というか「胸の痛み」を感じるのはなぜ?

Wp_20160907_12_11_21_pro
[テムズ川の南岸、クラッパム・ジャンクションの近くの漱石の最後の下宿]

理由その1
これまで「作品を読めばそれでいい。作者の伝記なんか興味ないもん」という、ちょっと驕った気分だったから。

作品に作者の意図を探ることは過ちである(インテンショナル・ファラシー)とか、テクストの解釈は読者にゆだねられ作者は介入しない(作者の死)とか、そういう批評態度を前提とする時代に学生だったせいか、どうも「記念館」「生家」「墓」のたぐいを見下す傾向が私にはあります。

でも最近、自分が歳とってきたせいか、「ある時代のある空間に生きた」という二度と再現できない偶然性が、妙に痛切に感じられるようになりました。作者に対する今までのシニカルな態度を、若干、反省しているわけです。

Wp_20160907_12_12_55_pro
[1901年から1902年まで漱石がここに住んだことを示す青いプラークが飾られています。記念館はこの向かいのフラットの一室]

理由その2
(比べるのも憚られますが)自分よりはるかに大きな才能の持ち主が、自分よりはるかに大きな苦労をしているから。

外国文学は理解が深まるほどに自分との距離感が明確になるものです。英語もできる人ほど難しさがわかるという面があります。目標に近づくと、目標が遠ざかる、という宿命が外国文学研究にはあると思います。日本の英文学研究のパイオニア夏目漱石は、誰よりも早く、誰よりも強烈にこの矛盾を経験したはずです。

それなのに国を背負っている以上、「科学的な文学研究」をしなければならないと覚悟を決めて、漱石は独力で方法論を打ち立てるべく真正面から取り組みました。

それに比べて、ちょこっと読みかじり、聞きかじりで、適当にやってるわけですよ、私なんか・・・。そういうわけで、なんか、「すみません」って気分になっちゃうんですよね。(漱石はぜんぜん気にしていないけど。)

というわけで、閉館寸前に「ロンドン夏目漱石記念館」に行って、なんとなく胸の重荷がひとつなくなったような気分になりました。

Wp_20160907_14_02_28_pro
[ベイクウェルタルトと紅茶。紅茶は「セントパンクラス・ブレンド」というのがあったので、そちらにしてみました]

で、お気楽ついでに、セント・パンクラスの駅の中にあるフォートナム・メイソンでお茶飲んでからケンブリッジに戻りました。この駅ナカのF&Mは、ごく小さい売店ですが、ピカデリーの本店みたいに大混雑していることはないので、お土産が必要なときはこちらがおすすめです。(店員の態度もこちらの方がマシ。)

« モーニング・グローリー | トップページ | 送別パーティ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ロンドン夏目漱石記念館:

« モーニング・グローリー | トップページ | 送別パーティ »