« うめぞうの鑑賞力 | トップページ | ある天文学者の恋文 »

2016年9月26日 (月)

ヴェネツィア対フィレンツェ

うめぞうです。

うめぞうは、絵画、建築、写真、ファッション、その他、イメージ系の感受性や知識が皆無で、まったく才能もセンスもない。会合から戻ってきて覚えているのは、議論の内容だけで、まつこが「ほら、あのブルーのセーターを着ていた人がね」とか「パンタロンスーツを着ていたあの人はね」なんて言うのを聞いても、まったく覚えていない。視覚情報より、圧倒的に言葉と音が好きなのだ。 だから、ヴィジュアル系でも映画や芝居なら言葉や音が入るので、まつこのお供でついて回っているうちに、少しは楽しめるようになった。視覚情報だけであっても、書道展なんかは漢字が書いてあるので比較的退屈しない。

2006824_007_1
[ヴィネツィアの目抜き通りカナル・グランデ]
それでも、ヴェネツィアの絵画展はそれなりに楽しめた。聖画から性画へ!これは美術には全く知識も感覚もないうめぞうにしては、自分でもなかなかうまく言ったものだと思うほど、ルネサンスの本質をよく表現しているキャッチコピーに思えた。時代順に見ていくと、芸術作品が教会堂装飾から、パトロン豪商たちの館をかざる公認ポルノに変化していくようすが、うめぞうにもよくわかった。

ところで、この展覧会をご覧になる時には、ぜひ、イヤホンガイドを使うことをお勧めしたい。 石坂浩二のナレーションは、往年の「シルクロード」の輝きは失せたものの、心地よいスピードとソフトな声で、当時のベネチアを彷彿とさせてくれる。

045_1
[こちらはフィレンツェのアルノ川]
あのようなベネチアの芸術家たちの作品を見ていると、ついつい、ライバルのフィレンツェとの芸術対決を、対比的に見せてくれる展覧会をやってほしいものだと思った。両方の都市の対比は、ジンメルのエッセイ「ヴェネツィア」にうまく描かれている。それでも、ジンメルはフィレンツェにみなぎる構築への意志や、個と全体の有機的つながり、政治的生命力の発露を褒め称え、それに対してヴェネツィアを覆う仮面性、虚偽、実体のない仮象性、移ろいやすさに美的退廃をかぎつけているように読める。

でも、うめぞうは圧倒的にヴェネツィアが好きだ。都市の中心に絶対的権力と政治的意志が存在したフィレンツェ。その秩序への意志は、カオスに耐えられない人間の弱さの表現でもある。その点、分散的な権力構造を持ったヴェネツィアには、民主制のもつ不安定性と移ろいやすさがつきまとう。そこから生み出されるアウトローの空間、遊戯、犯罪、退廃、人生のはかなさ。いいじゃないか。これに耐え、これを楽しむには、真にしなやかな強靭さが必要だ。

« うめぞうの鑑賞力 | トップページ | ある天文学者の恋文 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ヴェネツィア対フィレンツェ:

« うめぞうの鑑賞力 | トップページ | ある天文学者の恋文 »