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2015年1月31日 (土)

原理主義の由来

うめぞうです。

イスラム国の台頭にはまったく言葉を失ってしまうが、片やヨーロッパにおける反イスラム運動の高まりにも危惧の念をいだかずにはいられない。ここは穏健なキリスト教徒とイスラム教徒が連帯して、宗教的原理主義に対する抵抗力をつけていくことが大切だろう。

そこで今日は少し大きな歴史的文脈の中で、この現象を見ておくことにしたい。まず押さえておかねばならぬことは、宗教的原理主義は近代の現象だということだ。

資本主義的近代は伝統宗教によって支えられてきた社会統合を利用しながら発展し、かつその発展途上で宗教の社会的役割を切り崩していく。近代化とは、資本主義と伝統宗教が対立と葛藤を経ながら相互学習をしていく歴史だともいえる。西洋社会はこの相互学習に数百年の時をかけている。自然の科学的理解を宗教権力から切り離すためにも長い闘争を必要とした。宗教権力から相対的に自立した世俗的法治国家を建設するために、市民革命も経験してきた。日本もまた植民地化を免れたおかげで、内発的に脱宗教的な国家形成をなしとげる歴史的な余裕を与えられた。

しかし、今の中東地域には、みずからの宗教伝統と急速な資本主義化との相互媒介と相互学習のための歴史的猶予が十分に与えられなかった。それは大部分、暴力と利害計算にまみれた先進諸国の資源と覇権の争奪戦、および間接的直接的な植民地支配によるものだ。

今日、西側社会が中東地域の苦しみを理解するには、イスラムが原理主義に傾きやすい特殊な宗教だという理解を捨てて、自分たちもまた同じ葛藤や対立を通過してきたことを思い出す必要がある。近代化が失敗した場所では、キリスト教であれ、ヒンズー教であれ、ユダヤ教であれ、原理主義はかならず台頭する。アメリカの極右勢力もまた、進化論さえ受け付けない福音派の原理主義者によって支えられている。どこの国であれ、伝統宗教と近代社会は相互学習を続け、たがいに自らが提供できないものについて、謙虚に学び合う関係を築く必要がある。それに失敗すればつねに原理主義の台頭を招く危険がある。そうならないためには、その相互媒介をするための十分な時間と、教育と、そしてその前提としての平和が保障されなければならない。それゆえ今は、どのような形でもまず休戦協定を結ぶことをめざすべきだ。そして数十年の時間をかけて、イスラム戦士たちが自分たちの唱えている非西洋的宗教と自分たちが手にしている西洋的武器との矛盾に気づき、その矛盾を自ら仲介するための歴史的学習時間を持たねばならないだろう。西側社会は、それが自分たちもまた同じように経てきた道であることを彼らに分からせ、そして彼らの学習過程を妨げてきたのは、まさに今の先進諸国であることを彼らの前に謙虚に認め、謝罪し、その保障を行う姿勢が必要だろう。その中ではじめて無差別的暴力の力を妄信する人々を孤立させていくことができる。

これは、次の選挙が気になる政治家にはなかなか選択できない長期プロジェクトだが、誰かはその長期的展望を言い続けていく必要がある。宗教は近代社会から価値の多元主義を学ばなければならないし、近代社会は宗教から価値の代替不能性を学ばなければならない。世界宗教にはどこかに「誰とも交換できないあなたの救済のために、救済主(神/預言者/阿弥陀)はみずからの命を賭した」というメッセージが含まれているはずだ。資本主義はあらゆるものの交換可能性によって成立している。だから、「かけがえのないあなた」という代替不能性のメッセージは、資本主義社会の内部からは自己調達しにくい。宗教はこのメッセージによって、今なお現代における価値や意味の源泉のひとつとなっている。資本主義社会は逆に「君の代わりくらい、市場にはいくらでもいる、かけがえのない者になりたければ、自分に商品としての付加価値を付けろ」と人々に言い続けている。今では大学もその先兵役を忠実に果たしており、教員が平気で「品質管理」「付加価値」などという言葉を口にする。こういう資本主義社会で自分の居場所を失い、自らの存在価値を確信できなくなった多くの若者が、イスラム国に自ら志願している事実を、キリスト教圏の人々もまじめに考えてみる必要がある。

その意味で、イスラムはけっして対岸の火でもなければ、自分たちに理解不能な宗教でもない。それがこの問題を長期的に解決するための鍵となる認識だ。

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コメント

近代化と宗教という視点はとても興味深いです。ただその一方で、宗教という問題に落とし込まないほうがよいような気もします。日本ではなぜかピューリタン革命と呼ばれている内乱は宗教問題など全く争点ではなかったのと同様、全ては100%政治と軍事の話かと。宗教は戦争の精神的大義として利用されているだけにすぎず、むしろそこをはっきりと切り離す見方が大事なように思うのです。

Pukiさん
本質的に政治軍事問題であるものを宗教問題に流し込んではならないという、いつもながら鋭いご指摘をありがとうございます。それはおっしゃる通りですね。
ただ私には、ではなぜ絶望した人々が今なお宗教的原理主義に抵抗のよりどころを求めようとするのかという問いがやはり残ります。
私たちは今、政治問題は宗教問題から切り離すべきだし、切り離しうると信じていますが、この信念そのものが長い時間をかけた学習過程の成果だったのではないかと私には思えます。ホッブズも、ロックも、カントも、それぞれの流儀でこの切り離しのために闘いました。清教徒革命の本質が宗教対立ではなかったという認識そのものも、その学習過程の中から得られたものでしょう。
しかし、この学習過程はどの地域にも自明のこととして共有されてきたわけではありません。今の中東での紛争を宗教から切り離して解決しうるには、逆説的かもしれませんが、それぞれの地域で、伝統宗教と近代化の間の対話と相互学習がなお必要だと私に思われるのです。

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