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2014年3月29日 (土)

アベノムジュン

うめぞうです。

最近、ブログを書かなくなったのは、もちろん色々な雑事に追われていたからだが、もう一つの理由は、今の政治に、ほとほとウンザリすることが多かったからだ。

経済や政治の実体にも、専門的知見にも疎いうめぞうが、あまり床屋政談のようなことを書いても仕方がないし、かといって倫理的な悲憤慷慨では面白くない。そこで今日は、今の政治がかかえているムジュンを、少し抽象的なレベルで考えてみることにした。

日本に限らず、今の先進国の政治は、相変わらずネオリベラリズが基調となっていると、うめぞうは考えている。簡単にいえば、人件費抑制のための合理化、雇用の規制緩和、法人税減税などによって、資本の収益性を高める政策パッケージだ。しかし、これを一方的に進めると労働者の購買力を削いでしまう。当面、購買力がある人も、将来不安から、収入を、消費や投資ではなく、貯蓄に回してしまうだろう。そうなれば、需要不足、つまり物の売れ行きの鈍化を招く。

ネオリベラリストたちも、そのことには気付いている。では、どうするか。考えられるのは、賃上げをして中間層を増やし、年金や社会保障を安定させて将来不安を取り除き、収入が消費や投資に回るようにすることだ。しかし、それはネオリベラリズムからの方向転換を意味する。グローバルな競争にさらされている企業には、そんな余裕はない。自分のところだけ賃金を上げれば、社会全体の購買力が上る前に、自分の会社がライバルに負けるだけのことだ。産業別の労働組合が労働賃金についての交渉力を持っていた時は、ライバル企業も一緒に労賃が上がるから、比較的賃上げをしやすかった。今はそれがなかなか難しい。そこで、与党が経団連を通じて、余裕のある会社はなんとかしろ、とやんわり脅すしかない。もちろん、それだってやらないよりはやったほうがいい。

ところが、そこでムジュンがでてくる。もともとネオリベラズムは、法律から規範的な実質を剥奪して、純粋な形式法として法を解釈し、経済活動の自由を最大化するのが目玉だ。しかし、今や、政治が業界のトップを集めて、企業の社会的責任を説きながら、上からの賃上げを要請せざるをえなくなっている。形式法的に根拠の無い賃上げは長続きしないだろうと、うめぞうは見ている。

賃上げがうまくいかないとなれば、次は、国がお金を使うしかない。こうしてオリンピックであれ、除染であれ、公共事業は資本の収益性を保つための生命線になる。ところがここにもムジュンが出てくる。ネオリベは、もともと公共セクターを、経済活動に対する障壁と感じてきたからだ。経済の自由化や規制緩和は、政策パッケージとしては、行財政改革や緊縮政策、通貨高政策と、むしろ親和性がある。これを通貨安政策とインフレ覚悟の公共事業と組み合わせていれば、政策間の齟齬が出てくる。

不思議なことに、現在、階級意識を強く持っているのは、貧困化する労働者層ではなく、むしろ富裕化するトップエリートたちだ。エリート大学を出て、官庁であれ、金融界であれ、国際機関であれ、指導的立場に立っている人々は、立場の違いを超えて同族意識を強くもっている。資本主義が持続不可能な限界に近づいていることを、ある意味で一番良く分かっているのは、彼らなのかもしれない。勝ち組が危機感をもち、負け組が諦めているのは、本当に困ったことだ。

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