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2013年6月28日 (金)

限りあればこそ

ひさびさにうめぞうです。

顧みると、たまにはブログでも書こうか、と思ったのが去年の大晦日。結局その時は見送り、ふと気づけば、すでに半年が過ぎている。
陳腐ながら「光陰矢のごとし」という言葉は還暦を過ぎると誇張ではなくなる。ここでそのうち、と思っていると、2013年の大晦日もまもなく過ぎてしまうことだろう。
中江兆民は喉頭ガンの宣告を受けたとき、余命いかばかりかを医師に尋ねた。「一年半」というのがサバを読んだ医者の答だった。その時、兆民はその短さに嘆息することなく、むしろ以外な長さに感謝した。「一年半は諸君は短促なりといはん、余は極めて悠久なりといふ」。
実際には一年ももたなかったが、死を見据えた数ヶ月、兆民は『一年有半』『続一年有半』という珠玉のエッセイを残した。この絶筆が兆民の著作の中で一番良く読まれた。
限りあればこそ、最後の時が主題と文章を蒸溜した。残されたテーマは政治批判、芸能への愛着、宗教批判だった。
兆民の一年有半は、それに先立つ茫茫たる実業の歳月よりも、ずっと長く感じられる。言論のために職を失う同胞たちに資金を提供すべく開始した北海道での実業は、失敗の連続だった。そんな時、25歳で自殺した北村透谷は「兆民居士、いずくにかある」と悲痛な叫び声をあげていた。
「社会は彼を以て一部の思想の代表者と指目せしに、何事ぞ、北海に遊商して、遠く世外に超脱するとは」と透谷は嘆いている。
「世、兆民居士を棄てたるか、兆民居士、世を棄てたるか、そもそもまた仏国思想は遂にその根基を我邦土の上に打建つるに及ばざるか。居士が議会を捨てたるはむべなり、居士が自由党を捨てたるもまたむべなり、居士は政治家にあらず、居士は政党員たるべき人にあらず、然れども何が故に、居士は一個の哲学者たるを得ざるか。何が故に、此の混濁なる社会を憤り、此の紛擾たる小人島騒動に激し、以て痛切なる声を思想界の一方に放つことを得ざるか。吾人居士を識らず、然れどもひそかに居士の高風を遠羨せしことあるものなり、而して今や居士在らず、いたづらに半仙半商の中江篤介、怯懦にして世を避けたる、驕慢にして世を擲げたる中江篤介あるを聞くのみ。」
この声は兆民には残念ながら届かなかった。しかし、同じことを、限りある時が、兆民に伝えたのだ。余命を知らされた時、哲学者兆民がもどってきた。時間に限りがあることを見据えた人にとって、一年有半はけっして短促ではなかった。
してみると、光陰矢のごとく過ぎ去るのは、時間に限りのあることを、うめぞうが忘れているからかもしれない。

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コメント

北村透谷の文章にシビれました。ダメになった時に、こんな風に年齢も立場も超えて叱ってくれる同士が欲しいものです。

兆民はこの文章を読まなかったようですが、双方にとって残念なことでしたね。憧れの文筆家の沈黙は、透谷には耐えがたかったのでしょう。それにしても、透谷や、弟子の秋水の文章には、しびれるものが多いですね。

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