« 車内宴会 | トップページ | 星に祈る »

2012年7月 9日 (月)

命令者の創作

うめぞうです。

自分に直言できる後輩をいまから育てておこうという、まつことPukiさんのやりとりを読んで思い出したことがある。

哲学者のカントが一日の行動時間を厳しく自己管理していたことはつとに有名だ。散歩に出るカント先生の姿を見て、堂守が教会の時計を3時に合わせたというエピソードさえ残っている。

ただ、そんな彼にも早朝の定刻起床はそれなりに辛かったようだ。召使に起床時間の10分前に声をかけ、5分前には無理にでも起こすように命じている。ここまでなら、普通の人と変わりはない。カントのカントたるゆえんは、続いて次のように召使に命じたことだ。「もし私が、今日は眠いから、もう少しあとで起こしに来るように、と主人の権限によって命令したとしても、その命令に従ってはならない。これは、今、明瞭な理性をもった主人である私の命令であり、眠けのためにみずからの欲望に負けている私の命令よりも上位にあるからだ」。

つまりカントは自らの欲望よりも上位に立つ命令者を、自らの理性的意志に基づいて創りだそうとしたわけだ。これが自己立法によるカント的自由の原理だといえる。

自由?なぜそれが自由なのか。不自由の間違いじゃないのか?多くの人はそう思うだろう。人間には抑えがたい欲望がある。しかし、いつでもそれを満たすことができるとは限らない。だから、そうした欲望を誰にも遠慮せずに満たすことができる時、われわれは「自由」だと感じるのではないのか。寒くて眠い朝には無理せず寝ていられる、それが自由というものではないか、と。

しかしカントはそう考えなかった。人間の欲望、カントの言葉でいえばNeigung(傾向性)に囚われていることこそ、人間の隷属状態にほかならない。もし誰かが自分の欲望に逆らってでも自分の意志に忠実であり得るならば、その人こそがまったき自由人なのだ。綺麗なお洋服をいつでも買えるという状態はまだほんとうの自由ではない。どんなに買いたくなっても、買わずにいられる自律的意志こそが、人間を自由にする。まつこさん、わかるかなあ、わかんないだろうなあ。

近頃、欧米では『グレイの50の色合い』なる官能小説がバカ売れしているそうだ。なんでも、女性がある憧れの男性の奴隷となる契約を結び、BDSMの経験に酔いしれるといった小説らしい。契約を解除する権利は双方につねに与えられているが、女性は進んで奴隷となる。これは抑圧の体験なのか、つかのまの解放の体験なのか。眉を顰める読者もいれば、こういうものが売れる背景には、現代の自立した女性達の不安な孤独感があると評するむきもある。

一見すると、自分に対する命令者を自分の意志で他に求めようとしているという点では、グレイの場合も、カントの場合も、変わりないように見える。しかし、そこには越えがたい裂け目がある。いかに契約の形を取ったとしても、みずからの尊厳と自立を他者に譲り渡すことによって得られる被支配者の快感を、カントはけっして自由とは呼ばなかっただろう。

« 車内宴会 | トップページ | 星に祈る »

コメント

カント的自由の原理に感動しました。学生時代ボブにしていた私は、ある時ハタと似合わないことも気づいて髪を伸ばし始め、美容師さんに「今度私がボブにしたいと言った時は、頬をハタいてでも止めてくれ」とカントばりに言い放ちました。あれから、早や10年。「久々にボブにしてみようかな♪」と言っても、律儀な美容師さんはあの時の私の厳命に従い、頑として切ってくれません。私の自由と尊厳は守られていますでしょうか?

ふーむ。これはなかなか難しい問題ですなあ。
カント的自由論の最大の欠点は、自律的自我の決断根拠が、自己反省にのみ委ねられており、他者との相互行為が果たす役割が軽視されているところにあると思われます。
だからPukiさんと、Pukiさんちのダーリンとの間に
「たまには君のボブも見てみたい」
「似合わないからやめたの」
「似合うかどうかは君だけで決めることじゃないよ。僕が見て素敵だと思えば似合うってことだろ」
「そこまでいうなら、やってみるか」
という話になれば、これはカントの弱点をのりこえて、ヘーゲル的自由論へと展開していく可能性があります。
うめぞうとしても、いちどPukiさんのボブを見てみたいような気が…

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 命令者の創作:

« 車内宴会 | トップページ | 星に祈る »