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2011年7月17日 (日)

理性のゆくえ

引き続き、うめぞうです。

原発事故などが起こると、どうしても科学について、理性について考え直そうという気分になる。
世界には次々と予測できないことが起こる。しかし、根本のところでは世界を一つにつなぎとめている何かしら原理のようなものがあるはずだ。人類は長らくそう信じてきた。その「何か」は色々な呼び方をされてきたが、西洋哲学では神や理性などがその代表格だ。ただしこれが単なる名称なのか、実在なのかについては、長い議論の歴史がある。
いずれにしても、こういう考え方にたてば、理性は世界の中(背後、根底)に存在していて、世界に秩序を与えていることになる。ただし人間には、それが不完全にしかわかっていない。だから知識や思考力を深めていけば、いつかは世界を動かしている究極原理にも到達できるはずだ。

ところが、そう思って知識や思考力を深めていったところ、どうも理性は世界の中にではなく、われわれの頭の中にあるんじゃないかと人間は気づき始めた。しかも、もっと悪いことに、神や理性の権威などというのは、結局のところ支配者たちが自分の権力を都合よく正当化するために使ってきた方便じゃなかったのか、という疑いもわいてきた。この疑惑を追及した偉大な先駆者は例によってカントだ。因果関係などは、人間が経験可能な現象界を認識するための知性の形式以上のものではないと、カントは気付いた。だから理性は己の限界をちゃんとわきまえていなければいけない。経験可能な現象を超えたものに、その知性の形式をあてはめるようなまねは、理性の乱用にあたる。しかし同時に、理性が個々の主体に生まれながら与えられている能力であるとすれば、それを使用する際に、外部の権威の指図を受ける必要もない。人間は理性的存在として、絶対的な自由と自律と、そしてそれにともなう責任を負っている。こうしてカントによって、理性の住まいは世界から自律的主体の中に移された。
しかし、それでは世界の中に秩序原理は存在しないのか。家族を作り、共同体を作り、国家を生みだす歴史の運動には、ひとつの論理が貫通していないのか。あまりに自律的個人に注目しすぎたカントを乗り越えようと、ヘーゲルはもう一度、世界に宿る歴史的理性という壮大な観念論の創作に挑戦した。市民社会では交易や労働や相互行為といった関係の網の目から、たえざる紛争が生じる。個々の主体はその関係の中に自らを失いながら、やがては反省的に自己を回復し、倫理的に一段高いところに立つ国家によって宥和される。その暗黙のモデルは内発的な近代化の遅れを国家主導で取り戻そうとしたプロイセンだった。

しかし19世紀も半ばになると、資本制社会の現実(マルクス)や、その中で孤立化する自我の寄る辺なさ(キルケゴール)が切実に感じられるようになる。もはや世界設計者としての客観的理性、その世俗的代行者としての国家などという物語には、とうてい信頼を寄せるわけにはいかなくなった。

こうしてヘーゲル以降、理性(Vernunft)という概念は客観的なものから、むしろ操作的(operativ)、手続き的(prozedural)なものへと変貌していく。同時に「理性的」という言葉よりも「合理的」という言葉の方が学問的に好まれるようになる。
そして次なるステップとして、20世紀になると、理性は何より言語に結び付けられるようになる。世界は最初から言語的に構造化された形でわれわれに与えられている。カントは現象界の背後にある物自体は自由な道徳行為の目標にはなりえても、合理的認識の対象にはなりえないと見た。20世紀になると、言語の背後にある世界想定が怪しくなってきた。

こういう長いプロセスを経て、現代の哲学には言語ゲームのルール審判者の役割が与えられるようになった。どのようなルールの言語ゲームのもとで、ゲームの勝者は「真」であるとか「妥当」であるとかといった賞状を手にできるかを、公平に判定するのだ。
しかし、ここに来てまた、言語にはなりにくい「感情」が果たしている役割をこれまであまりに過小評価してきたのではないかという反省が生まれている。また、もしすべてが言語ゲームならば、世界についての客観的認識という科学のルールは、どこでその「客観性」という属性を手に入れることができるのか、という疑問もわいてくる。

究極的にはすべて、戦争や貧困、差別や人権侵害のない平和で愉快な世界を作るための作業の一環だと思うのだが、理性の歴史もまだまだ先が見えてこない。

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