« 老後生活のリハーサル | トップページ | 祈ること »

2010年12月31日 (金)

家族と宗教

久しぶりにうめぞうです。

気が付けば大晦日。
さて今年一年、うめぞうは何を考えて過ごしたかを振り返ってみると、二つのテーマが浮かんでくる。宗教と家族。しかし、これはあらためて、うめぞうにしては意外な感じのテーマではないかと思えてくる。
わが家はいちおう、まつこは右派、うめぞうは左派ということになっている。もっとも、まつこの意見によれば、うめぞうは体質右派だそうだが、いずれにせよ、こんな分類はもはやほとんど意味がなくなっている。
とはいえ、たとえばフランス革命のときに伝統を甘く見た革命をこてんぱんに批判したエドモンド・バークの意見にうなづくか、それともバークを批判して、フランス革命の理念を擁護したトマス・ペインの意見にうなづくかといわれれば、うめぞうはやはりペインの側に立つ。現実はバークの予想通りに進んだが、にもかかわらず、理念は何世紀もかけて自らを粘り強く実現していくと信じるからだ。
ところが宗教と家族というふたつの領域は、これまで長らくバーク系列の守護神だった。宗教と家族は、ほとんどの場合、近代的理性や個人主義などの底の浅さと、頭でっかちの傲慢さを批判する際に、保守派が拠点としてきたものだった。
ところがここ何年か、風向きが変わってきた。啓蒙主義の側に立つ論者、たとえばチャールズ・テイラーやウルリヒ・ベック、はては左派の論客テリー・イーグルトンまでが、宗教についての本を書いた。カント的理性主義の継承者と見られているハーバマスがローマ教皇と対談するなどということは、80年代までは想像もできなかっただろう。
その背景にあるのは、ひとつには啓蒙主義自身の自己反省だ。普遍主義を標榜する啓蒙主義は、文化や伝統によって理性の基準が変わるのは困るので、どうしても個別内容を振り落して、形式的なものに退却する傾向がある。カントの純粋理性が無時間的、非歴史的な数学的形式に近づくのはそのためだ。しかし、個別内容を捨象する形での普遍主義は、近代の致命的弱点である意味の空洞化に手を貸すことになる。これについての啓蒙主義自身の反省が、宗教や家族の再評価につながっている。自分が提供できない意味の源泉については、むしろそれを提供している意味領域と相互補完的に進んでいこうというわけだ。
そしてもう一つは、宗教や家族自体の中で進行している解体過程、いや、再組織化の過程だ。
ここが重要な点だが、上に挙げた論者が、そしてうめぞう自身も、期待をかけているのは、旧来の家族や宗教ではない。昔の宗教共同体や家族共同体への回帰やノスタルジーは、言葉の本来の意味で、反動的だ。今や、宗教や家族の内部でも、容赦なく個人化(ベック)が進行している。宗教は「自分自身の神」(ベック)を信奉する個人宗教となり、家族はゲイカップルや未婚の共同体を含めて、共同生活の多様な演出形式となっている。そしてまたシングルの増加。都市生活世帯の約半数は、今や、シングル世帯になりつつある。こうした現象を家族の解体として嘆く風潮があるが、うめぞうは、こうした変化を大歓迎している。単身生活を不幸でさびしい生活のように描くのは、まったくの偏見だ。シングルあり、未婚の母あり、同性婚あり、離婚や再婚あり。たしかにそこには、種々の悲劇もあるだろう。しかし伝統的家族にも悲劇の種は十分にあったのだ。個人の選択肢が広がることに伴う多様性を、まともな啓蒙的理性ならば、自らの形式主義的傾向を補うものとして大いに尊重するだろう。
ところで、今いっしょくたに論じた宗教と家族の関係はどのようになっているのか。
聖書をひもとくと、この点についてのイエスという人物、あるいはパウロという人物の特異なポジションが目を引く。ユダヤ教は徹頭徹尾、家族主義的だった。神への服従、父親への服従は絶対だ。親の言うことを聞かない反抗的な子供は、町の門の外に連れ出し、石打ちの刑で殺せとさえ言っている。タルムードには、結婚して子供を産まないのは犯罪行為だとすら言われている。ところがイエスは、こうしたユダヤ教の家族主義に果敢に反抗した。この点で、この人物は真の革命家だった。まさにスーパースターだ。
たとえばルカ伝の14章には「父、母、妻、個、兄弟、姉妹、さらに自分の命まで捨てて、私のもとに来るのでなければ、私の弟子になることはできない」というイエスの言葉が収録されている。マタイ伝10章では、自分がこの世に来たのは、「人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためだ」と語り、「わたしよりも父または母を愛する者はわたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言い放っている。またヨハネ伝の2章にはカナの婚礼でイエスが自分の母に向かって「女よ、あなたは、私と何の関係があるのか」と言っているし、19章では、十字架上に磔けになっても、心配する母親に向かって「女」(γυναι(グナイ)、ドイツ語ではWeib)と呼びかけている。自分の母親をかつて「女」などと呼んだ人は、このブログの読者には一人もいないだろう。マタイ伝12章やマルコ伝3章では、弟子がイエスに、あなたの母親や兄弟姉妹があなたを待っていますと告げると、「私の母、私の兄弟とは誰のことか」と問い返し、弟子たちを指して、この人たちこそ自分の母であり、兄弟だと言ってのけている。
ことほどさように、イエスが家族主義を敵視し、この絆を断ち切ることを、みずからの信仰革命のかなめと考えていたことは疑いえない。パウロもまた、その点では同じだった。彼がギリシャ世界に伝えたキリスト教は、ユダヤ教の家族主義へのアンチテーゼとしての個人主義的信仰だった。そしてこれがギリシャ的伝統に受け入れられ、西洋キリスト教が確立していく。それがその後、18世紀の啓蒙主義と、今日における個人主義的文化の礎石となったとうめぞうは考えている。ギリシャ文化は、古代にあって、うめぞうが知っている唯一の非家族的精神文化であり、うめぞうはやはり、ユダヤ教よりもギリシャ哲学を愛している。
うめぞうは若い人たちが愛する異性(同性)とともに共同生活を送ることを大いに勧める。しかし、それは一般に考えられているように、家族形成のためではない。まったく逆に、親との関係をいったん清算するためにこそ、その一歩が必要なのだ。うめぞうは、自分で言うのは何だが、現実には親孝行な息子だと思うし、またまつこを大いに愛しているが、これを「家族愛」と呼ばれると、少し抵抗したくなる。家族や宗教が、平和と愛情の源泉となるためには、いったんそれが、集団形成のルールから切り離され、自由な個人としての選択に委ねられねばならない、とうめぞうは考えている。これは、日本社会ではいかにも、似非インテリ風の個人主義に見えるだろう。しかし今年一年もやはり、うめぞうはこういう点では革命家でありたいと夢想しながら過ごしてきたようだ。こっけいといえばこっけいだが、この大晦日を一人で過ごしている皆さんに、うめぞうは心からエールを送りたい。豊かな共同生活は孤独を楽しむ強さからしか生まれない、と。
一年間、このブログを読んでくださった皆さん、どうもありがとう。それぞれの場所で、よいお年をお迎えください。

« 老後生活のリハーサル | トップページ | 祈ること »

コメント

うめぞうさま。まつこさま。

明けましておめでとうございます。

今年も良い年になりますように!


しょうさんにとっても、よい一年になるといいですね。
いろいろ苦労はあるでしょうけど、今日の苦労は今日にまかせ
明日を思い煩うことなく生きていきましょう。
道はおのずと用意されることを信じて。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 家族と宗教:

« 老後生活のリハーサル | トップページ | 祈ること »