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2010年10月22日 (金)

命令する神と対話する神

また、うめぞうです。

最近は、哲学のほうでも、宗教の話題が多い。ハーバーマスがローマ教皇と対話をしたり、「信仰と知識」について演説をしたり、チャールズ・テイラーが「世俗時代」について厚い本を書いたり、ウルリヒ・ベックが「私自身の神」について書いたり、はたまたテリー・イーグルトンが宗教について書いたりと、一時代前にはちょっと考えられないくらいに、宗教の役割の再定義、再評価が行われている。

上にあげた哲学者、批評家は、立場は違えど、すべて近代啓蒙主義のプロジェクトの支持者たちだ。近代が要求する合理性、政教分離、価値の分化、民主主義的手続きなどを尊重している。それでも近年、宗教、とくに西洋の一神教の伝統のよい部分を、近代のプロジェクトにうまく取り込んでいく道を真剣に模索しているようにみえる。近代がどうしても、もちこんでしまう形式化、意味の空白化を、なんらかの形で修正し、補うものが必要とされているのだろう。

ところでキリスト教、イスラム教、ユダヤ教という一神教の代表格は、ともにアブラハムを信仰の始祖と仰いでいる。このアブラハムの話を読んでみると、面白いことに、そこには一神教の神といえども、二つの明確に異なる相貌をもっていることに気づかされる。ひとつは命令する神、もうひとつは対話をする神だ。

命令する神、律法を付与する神については、よく知られている。夫婦とも老人になってから授かった愛息イサクを理不尽なことにいけにえに捧げよと命令する神、そのような残酷な命令によって信仰を試す神は、日本人から見ても典型的な一神教の神に見える。だから日本ではよく「一神教はどうも厳格すぎて、独善的になりやすい。その点、ヤオヨロズの神や、仏教は多様性を認める寛容さがあっていいよね」という議論を耳にする。

そんなときに日本人がしばしば見落としているのは、アブラハムと対話をする時の神の姿勢だ。たとえばソドムとゴモラの町の話がある。かつては、この町は、ホモセクシャルが横行していたために滅ぼされたという説が横行していた。まあ、そんなふうに読めそうな表現もなくはないが、近年では、寄留者への攻撃性、旅人に対するホスピタリティの欠如が神の怒りを買ったという説が有力だ。

それはともかくとして、倫理的に堕落したこの町を神が滅ぼそうとしたとき、アブラハムは主なる神に向かって、堂々とその決定の倫理的正当性を問いただしている。この町に正しい人間が50人いても、あなたは彼らを悪いものと一緒に滅ぼしてしまうのですか、とアブラハムは主を問い詰めるのだ。「全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」(創世記18章25節)と。

すると驚くべきことに、全能の主なる神は、ナルホド、と納得して、50人正しい人間がいればゆるそう、と約束する。それでもアブラハムはひきさがらない。では45人ではどうか。40人ではどうか、30人では、20人では、10人では、と主なる神を追いつめていく。

ここには、神といえども、公義の原則は守らねばならず、たとえわが子を犠牲にすることもいとわぬ絶対服従のしもべであっても、こと公義のためならば、神に向かって異を唱えるべきであり、神もまたその異議申し立てに耳を傾けなければならないという明確なメッセージがある。

こんなふうに三大一神教の伝統には、たんに「上から目線」で命令する神のほかに、公義について対話し、理屈さえ通っていれば、みずからの判断を修正する準備のある神の姿もまた存在しているのだ。もちろん、スペインの征服者たちによる中南米の略奪、殺戮ひとつをとってみても、一神教の神の名において犯された歴史的犯罪は枚挙にいとまがない。しかし、あまりにそこだけに集中して、一神教の伝統を一面的に理解してしまうと、ヨーロッパの哲学を理解するために決定的に重要なもう一つの水脈を、つまりは対話的理性の水脈を見落としたり、過小評価したりしてしまう。これもまた、日本のヨーロッパ理解が陥りやすい落とし穴のひとつだ。

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