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2010年9月29日 (水)

効率追求の果てにあるもの

うめぞうです。

前にも登場したロンドン在住の友人Оさんから、先日の記事についての感想が寄せられた。同世代の彼もまた、今になって母親や妻が作り続けてくれた弁当のことを思い出すという。

しかし、うめぞうからみると、Оさんもまた日々の積み重ねをたんたんと続けてきた優れた人物だ。うめぞうとはまったく出来が違う。そこで今日はОさんへの返事を書くことにしよう。

Оさん、メールをありがとう。 

僕は小学生の時から、小さなインプットで、大きなアウトプットを得ることに長けた実に小生意気な子供でした。小学校から大学まで、授業中にほとんど一度もノートを取らずに過ごし、なぜ本を読めば書いてあることを自分で書き写さないといけないのかわかりませんでした。

それだけではありません。ちょこっと勉強して80点取れるなら、100点取るために何倍も努力する必要がどこにあるのか。将来、受験科目にない科目の勉強をなぜやらねばならぬのか。こんなことがまったく理解できず、高校や大学の受験に必要な最低限の成績をとるために、受験に関係する科目だけ、しかも出そうな問題だけを効率よくつめこむ。そんな勉強をしてきました。

だから「読書百遍、意自ずから通ず」という言葉が伝えていることを聞く耳は一切なく、面白そうなところだけをつまみぐいして、解説を読んで、要点を頭に入れておしまい、という読書をしてきました。試験前の一夜漬け勉強をつづけ、年長者や先達に対する敬意も払わない。そんな子供であり、青年であり、また教師だったのです。そして、愚直に、要領悪く、言われたことを律儀に、たんたんとこなすだけで、その行為の意味を問わず、効率を問わず、およそ自己懐疑のないように見える友人たちを、内心どこかで小ばかにしていました。しかし、そうした友人たちはのちに素晴らしい仕事をすることになります。 

今思えば、戦後の伝統解体と高度成長期のイデオロギーを、友人たちに一歩先んじて骨の髄まで吸収していたのかもしれません。そして、その悪弊は今でも研究、教育、行政の全般に及び、僕自身の人格を作り上げています。その点では当時も今も、メンタリティは寸分も違いません。

唯一の違いは、そのことに気づくようになったことです。少し遅すぎたようにも思いますが、ともあれ地上の命がある間に気づかされてよかったと思っています。

効率追求の根底には、今の労苦が、未来の利得によって穴埋めされるという発想があります。だから労苦を最小化し、利得を最大化しようとするのです。しかし、それによって、現在の行為はつねに未来の成果のための手段と化します。今という時がたえず手段と化し、幸福の瞬間はたえず未来へと引き伸ばされる。目の前にいる他者が、自分の未来の幸福の手段と化す。これは資本主義の精神そのものです。

遅まきながら僕としては、今の行為が手段ではなく、目的そのものになるような生き方、そもそも目的と手段が分離しない生き方を目指したい。また同時に、あらゆる行為を手段化し、その手段の効率性を競わせることでなりたっている資本主義の仕組みを解明してみたい。

貴君のメールをよみながら、そんなことをつらつら考えました。

東京にもようやく秋風が吹いています。ロンドンはこれから急速に日が短くなるでしょうから、からだに気をつけて過ごしてください。

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