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2009年7月11日 (土)

自分探しはおやめなさい

ひさしぶりにうめぞう、いや、うめじいです。

自転車操業の日々が続いていて、なかなかブログを書く余裕がない。先週は還暦を迎え、自分の実家でささやかな祝い。これを機に、まつ子はうめぞうを「うめじい」と呼ぶようになった。はたしてこれがめでたいことなのか・・・

今週は従者としてまつ子の実家に帰省。久しぶりにのんびりと週末を過ごしている。男女の格差は昔と比べるとずいぶん縮まった。しかもまつ子はわが上官だ。とはいえムコという立場はそれを補ってあまりあるほど圧倒的に有利だ。ヨメという立場とはまったく違う。いわゆる非対称性が厳然と存在する。ヨメはどちらの実家でも台所に立たねばならないとついつい感じてしまう。ムコは台所に入ると即座に追い払われる。座敷で仕事をしていても罪意識はまったくない。それどころか1時間に1度、茶菓が運ばれてくる。自宅ではとてもこうはいかない。うめじいには、まずは理想的環境といえる。母君はたしかに物の名前などは出てこなくなり、独り言が多くなった。でも今のところ、表情はおだやかで、笑顔もよく見られる。もともとバカボン系のうめじいには物の名前などたいした問題ではない。タイがヒラメでも、キュウリがナスでも、人間、笑って過ごせれば「それでいいのだ」!

ところで最近よく「自分探し」という言葉を耳にする。2年ほど前には「自分探しの哲学」なる本も出た。その副題には「ほんとうの自分」と「生きる意味」と書かれていた。昨年には、自分探しに伴うさまざまなリスクについて警告した「自分探しが止まらない」という本も出版されている。

自分でも知らない「ほんとうの自分」がどこかに存在しているはずだ。それを探し当てて、本当の自分に出会うことこそが生きる意味だ ― この考え方は哲学史的に、なかなか面白い問題を含んでいる。

「本当の自分」というときの「本当」とはどういう意味か。

これには大きく分けて二つの系譜がある。ひとつは他者に対して嘘をつかないという意味での「正直さ」「誠実さ」だ。ドイツ語ではAufrichtigkeit(アウフリヒティヒカイト)、英語ならsincerity(シンシアリティ)という言葉になる。そういえばシンシアリー・ユアーズは、英語の手紙の末尾に書く言葉として、うめじいも中学生の時に習ったことがある。裏腹なく、心の底から私はあなたのもの、ということだろうか。

これに対してもう一つの系譜は、他者に嘘をつかないというのではない。自分自身を心の奥底で動かしているものをそのまま表現するという意味での「真正さ」だ。これはドイツ語でも英語でも同じ語系でAuthentizität(アウテンティツィテート)/authenticity(オーセンティシティ)という言葉で表現する。その形容詞形であるアウテンティッシュ/オーセンティックは、骨董品や絵の真贋、ヴァーチャルリアリティではない生の現実といった意味でよくつかわれる。日本語で近い言葉をさがせば「正真正銘」という感じか。

「正直」と「正真正銘」。この二つはどう違うか。一番の違いは「社会性」の有無だ。「正直さ」は他者との関係の中でのみ問題になる。一人だけの生活ではそもそも成立しない。自分に対する正直さというのは、自分自身の中に一人の他者を設定してはじめていえることだ。これに対して「正真正銘」というのは、自分の情動をそのまま表現しているということで、一人だけでもなりたつ。

たとえばうめじいは、お酒などを飲むと突然、ドン・ガバチョになりきって「みなさーーーーん、私、ひょっこりひょーたん島村長は・・」と演説を始めることがある。まつ子からは、「恥ずかしいから、お願いだから人のいるところでやるのはやめてね」、と固く言い渡されている。なぜかというとまつ子のパパが正真正銘のドン・ガバチョ一号だったからだ。このパパは長年難病を患ったあげくに2年ほど前に他界した。他者に対して「正直」であったかどうかは大いに疑問だが、つねに「正真正銘」であった。心の思いのままに生きたのである。

最近では、うめまつ、大のお気に入りの絵莉さんパパの南極物語(北極だったか?)がまさにこれだ。本人はまったくなりきっている。そんな時、うめじいも、まつ子パパも、絵莉パパも、正真正銘ドン・ガバチョであり、探検隊長なのだ。それは社会的文脈に生きる人からはバカバカしい冗談であったり、嘘であったり、逸脱であったりする。だからそれを周囲は「恥ずかしい」と感じる。この「羞恥心」を呼び起こすという性質が、「正真正銘」のひとつの特性なのだ。これは「正直」の方には見られない。

哲学史では、18世紀の半ばくらいに、「本当の自分」の定義が、「正直」さから「正真正銘」さに変化したのではないかといわれている。難しく言うと、それ以来、本来的自我が非社会的存在として表象されるようになった、というわけだ。うめじいは、その最初はルソーではなかったかと睨んでいる。ルソーの『人間不平等起源論』が設定する原初の人間は、孤立した非社会的存在だった。同じ時代でも、アダム・スミスの『道徳感情論』は、「本当の自分」をあくまで他者の視線にさらされている存在と見ていた。スミスはまだ「正直」派なのである。このあたりがイギリスと大陸の近代化の様相の違いかもしれない。ルソー、(カント)、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーと続く系譜は、うめじいの目には、自我の本来性を非社会化していく哲学運動に思える。カントをカッコにいれたのは、別の側面のカントを最近強く感じるようになったからだ。

さて、哲学者の中には、この二つの系譜を時系列ではなく、人間の本質につねに潜む二つの衝動として理解すべきだという人もいる。プレスナーという哲学者は「本当の自分を知ってほしい」衝動と「本当の自分を隠しておきたい」衝動がつねにせめぎあっているのが人間だと考えた。

さて、うめじいの立場はどうか。これはわりあいとはっきりしている。正真正銘派の自我理解は、近代的な自我形成の重要な転換であったが、惜しむらくは、それを人間存在の「本質」とみたところで失敗した。それはひとつのパフォーマンスとして、しかも非一貫的で非体系的なパフォーマンスとして解釈すべきだったのである。だからうめじいの主張はこんな風になるかな・・・

みなさーーーーん、「本当の自分」なんてものは、ありません。そんなもの探すのは、おやめなさい。井上陽水も言っています。「探すのをやめたとき、みつかることもよくあることで・・・」と。人生は一幕の芝居。本当の演技と嘘の演技があるのではありません。うまい演技とへたな演技があるだけです。誠実な芝居と不誠実な芝居があるのではありません。面白い芝居と、つまらない芝居があるだけです。みなさーーーん、たがいの人生を面白い芝居にするために、巧みな演出をしましょう。ひとりよがりはいけません。観客の笑顔が唯一の報酬です。自己憐憫はいけません。涙は楽屋で流しましょう。さまざまな人が作りだす様々な場面での役割の総体、それが強いていえば自分です。でもそれを一つの言葉で呼ぶ必要があるでしょうか。いわんやその自分の「本質」などについて語る必要があるでしょうか。それはすでに芝居のルールに反します。南極隊の隊長にはともに越冬する隊員が必要です。迫真の演技で隊員を演じましょう。会議のときには論客を演じ、恋人と一緒のときには誘惑者を演じ、介護のときには看護師を演じ、市民としては公正な社会建設のための役柄を演じ、子供の前では親を演じ、生徒の前では教師を演じ、周りに誰もいなければ、のんびりした御隠居さんを演じましょう。みなさーーーん、これは正真正銘、ドン・ガバチョになりきったうめじいのシェイクスピア礼賛でーーす。これ以上続けるとまつ子に「お願いだから、恥ずかしいからやめて!」といわれまーす・・・

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コメント

うめぞうさん、お誕生日おめでとうございます!新しい人生のスタートに心よりご多幸をお祈りします。さて、私も本当の自分なんて死ぬまで謎だと思ってます。しかも私は科学者ではないのでWahrheit真理を追究する必要もなく、毎日を精一杯生きることが大切だと思ってます。あの世がホントの世界でこの世の自分は所詮仮の姿でしょうから。ところで、京都はあちこちコンコンチキチンで賑やかです。昨日ダウンタウンを車で通ったらもういくつか鉾が立ってました。明日から宵々山と市内は人の頭の細胞分裂で(私にはそう見えます)一杯になることでしょう。

fuguさん
コメント、ありがとうございます。
還暦になっても、急に人生が変わるわけではありませんが、とりあえず節酒を開始しました。今のところアルコールは週に1-2日程度に押さえています。そういえばfuguさんは、今年はご結婚だったでしょうか。これこそ、ほんまの新しい人生、楽しみですねえ。ただでさえあつい京都の夏がもっと暑くなりますね。京都もしばらく行っていないので、行きたいなあと思っています。

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