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2009年7月

2009年7月27日 (月)

虹の彼方に

まつこです。

今日の夕方、東京に大きな虹がかかりました。ご覧になった方、いらっしゃいますか?

Photo[At the end of the rainbow is a pot of gold...確かに黄金の光が地面からふきだしているように見えます]

帰宅時の雨をさけて家で仕事をしようと、大きな荷物を持って早めに帰宅したら、予想に反し夕刻には雲が切れ、夕日がさしました。するとベランダの向こうに大きな虹がかかったのです。よく見ると二重の虹です。

雨上がり、昼間の暑さが嘘のように、涼しい風が吹きだしました。いつもほこりっぽい東京の街も、雨上がりはきれいに見えます。

Photo_2[雨があがり、虹が消えると西には夕焼け雲]

こんな夕暮れ時は、気持ちがのんびりします。職場から手がちぎれそうなほど重い思いをして仕事を持ち帰ったのですが、すぐに取りかかる気になれず、暮れなずんでいく空をしばらく眺めて過ごしました。

こんな雨上がりに聴きたくなるCDがあります。アンドレ・プレヴィンとシルヴィア・マクネアーが組んで、アメリカのちょっと古めかしいポピュラー・ソングを演奏している録音です。ジェローム・カーンの歌を集めたSure Thing - The Jerome Kern Songbook / McNair, Previnと、ハロルド・アーレンの歌を集めたCome Rain Or Come Shine - The Harold Arlen Songbook / McNair, Previnの二枚。Over the RainbowとかIt's Only a Paper Moonなど親しみのある曲が並んでいます。マクネアーはクラシック歌手らしい清潔な歌声で、おなじみの曲を自然とリラックスできるような安心感のある歌い方で聞かせてくれます。

Photo_3[これが雨上がりに聞くお気に入りの2枚のCD]

クラシック、ジャズ、ピアノ、指揮、作曲と多岐にわたる多才ぶりと、5回の結婚のほかに、数え切れぬほどの女性と浮名を流したプレイ・ボーイぶりが傑出していたアンドレ・プレヴィンも80歳になるはず。3年ほど前に5番目の妻、ヴァイオリニストのアンネ・ゾフィー・ムターに捨てられたという記事を読んだけれど、今はどうしているのでしょう?

4番目の奥さんが、いかに浮気に悩まされたかを語りながら、それでも素敵な人だと新聞のインタビュー記事で語っています。ウィーン・フィルを指揮するとき、リハーサルに立ち会えない奥さんが、自分の代わりにテディ・ベアを最前列に座らせておくと言ったら、翌日、会場の最前列全部にテディ・ベアが並んでいたとか。チャーミングな男性であることは確かです。

そのプレヴィンの魅力がマクネアーの素直な歌声に寄り添うピアノの伴奏にもあふれているのですが、やっぱりこの録音に際しては、マクネアーにも言い寄ったんじゃないかな・・・などと思いながら、雨上がりの夏の夜に心地よい音楽を聞いています。

2009年7月26日 (日)

若い友人を持つ効果

まつこです。

最近、若い友人が二人立て続けに結婚しました。久しぶりの慶事です。メデタイ!そのうちの一人は元の教え子です。彼と一緒に指輪を選びに行くとか、結婚式場探しをしているとか、楽しそうに話してくれます。

もう一人は同僚のアンジュです。このアンジュのためにアマゾネス軍団と呼ばれている職場の女性グループが、祝宴を開くことにしました。ウメマツの自宅が会場です。久しぶりのホーム・パーティになりました。

Photo[ウェディングをイメージして白いもの集めたコーナーを作ってみました]

若く美しい花嫁のために、白い花など飾って、お料理の用意して準備万端。金曜日の夕刻、アマゾネスたちが次々と、シャンパンだの赤ワインだのデザートだの持って我が家に結集。しかし残念ながら新郎はお仕事が忙しいうえ、シャイな性格らしく、参加できませんでした。

パーティが始まり、乾杯がすむと、「ねえねえ、どこで出会ったの?」「決心した決め手は何?」「なんて呼んでるの?」「写真は? えっ? 持ってない? どんな顔? しょうゆ系? ソース系?」などなど、遠慮会釈ない質問攻めが始まりました。これじゃあ、新郎が恐れをなして来ないはずです。

食べるほどに、酔うほどに、夏の花火のように次々と炸裂する話題。語学教師の集まりなので、日頃からしゃべるのが商売ですから、かなりにぎやかです。このアマゾネス軍団、集まると必ず一度は年齢のことが話題になります。ブログに年のことは書くなとくぎを刺されているのですが、一番若いのが今回結婚したアンジュで30代になったばかり。一番、年上が私で、あとはいわゆる「アラフォー世代」です。

Photo_2[花嫁の父・・・ではなく、ついでに『還暦』のお祝いの花束をもらったうめぞう」

最近、同世代あるいは年上の友人と会うと、ついつい健康問題とか家族の介護問題に話題が向かいがちです。それはそれで共感し、いろいろ協力しあえていいのですが、一方、「新婚」とか「入籍」といった若い人たちの話に触れるのも新鮮で気持ちのいいものです。

若い人たちと付き合うと、多少おばさん扱いされてもめげないしたたかさ、そして若さの持っている絶対的な魅力を素直に認める鷹揚さが自然と身につきます。逆に若い人たちを遠ざけたら、硬直した警戒心が強くなってしまう危惧があります。こわばった心はこわばった表情と皺のもとです。ですから年下の友人を持つというのが、最も効果的なアンチエイジングの方法ですね。にぎやかな宴の最中に改めてそう思ったまつこでした。

2009年7月20日 (月)

デジタル日めくりカレンダー

まつこです。

土曜日の晩に仕事があったため、日曜日から連休を利用して帰省しています。今回の帰省では、うめぞうからママへのプレゼントを預かりました。「デジタル日めくりカレンダー」です。

Photo[うめぞうからママへのプレゼント]

先回帰省したとき、和室でうめぞうが仕事をしていると、母は一時間に一回くらいお盆にお茶とお菓子を載せて、うめぞうのところに運んでいました。ムコ殿はいたって大切にされます。

その茶菓サービスの際に、「あのー、ちょっとお聞きしますが、今日は何日だったでしょう?」と母がうめぞうに訊ねたのだそうです。確かに、毎日、同じ生活の繰り返しだと曜日の区別はつけにくいものです。しかも認知症で日付や曜日を忘れがちな母。一人暮らしでは、日付を聞く相手もいません。

そこでうめぞうがネットで探し出してくれたのが、このシチズンの卓上カレンダーです。電波時計もついているし、温度・湿度も表示されます。なにより良いのが、文字表示が大きいことです。母も「これはいいわー」と喜んでいます。

私は金曜、土曜と、久しぶりにスポーツしたら全身が筋肉痛です。肉体に負荷をかけたら精神的な緊張も緩んだようで、心身ともフニャーッとした週末を過ごしています。今日はいっさい仕事をせず、村上春樹の『1Q84』を読んで過ごしました。

この『1Q84』の中で主人公の男が認知症の父親に会いにいく場面があります。村上春樹は認知症をこんな言葉で表現しています。「認知症には進行はあっても、回復はない。そう言われている。前にしか進まない歯車のようなものだ。」(p.163)「自らの内側で徐々にひろがっていく空白と共存することを余儀なくされている。今はまだ空白と記憶がせめぎあっている。しかしやがては空白が、本人がそれを望もうと望むまいと、残されている記憶を完全に呑み込んでしまうだろう」(p.184)

「前にしか進まない歯車」のように「空白」が記憶を徐々に呑み込んでいく・・・。村上春樹は比喩を多用する文体がその魅力の一つだと思うのですが、全体にその比喩が叙情性に傾き、時として事実としての質量をともなう切実さが消えていく傾向があります。(イスラエルでのスピーチでパレスチナ人を「割れやすい卵の殻」に喩えたのもそうした抒情詩的表現のひとつ。)

認知症は物語の中の小さなエピソードなのでそれでいいのかもしれないけれど、物語の中心テーマはカルト宗教という「やばい」領域なので、もう少しハードでダークな部分があってもよかったのにと、やや物足りない読後感が残ったのでした。

注:『1Q84』って外国語に翻訳するとき、タイトルは"1Q84"とするしかないんでしょうね。タイトルですでに「言葉遊び」が入っているなんて、翻訳者泣かせですね。

2009年7月15日 (水)

無欲の芸

まつこです。

スピーチの仕方や話術の指南書などに、ところどころで聴衆を笑わせるようにと書いてあることがあります。講義も同じことで、90分ずっーと真面目一点張りだと、教室のあちらこちらで学生が机に突っ伏して眠ってしまいます。ときどき、ちょっとしたジョークなどさしはさみ、学生の眠気を吹き払ってあげることが必要。

しかし、教師生活も長くなり、年々、学生との年齢差を実感します。笑いの感覚というのは、かなり、年齢差があるものです。おばさん感覚のジョークが受けず、教室がしらじらとした雰囲気になることだけはなんとしても避けたい!

Photo[勤め先の大学は共学なのですが、私のゼミは女の子が圧倒的に多い。真ん中の地味な服が私]

しかし、最近、意図せぬときに学生から笑いが起こるということが時々あります。それは私が若者言葉を理解せず、すっとんきょうな反応をしてしまった時です。最近もありました。私のゼミで『ヴェニスの商人』に登場する、超お金持ちのお嬢様ポーシャについて、学生が発表をした際のことです。

学生A子:「第3幕第2場のこのセリフからポーシャはいわゆるツンデレであると分析できます…」

まつこ:「えっ? なに? つんでれ? つんでれって言ったの? それなあに?」

学生一同:爆笑

まつこ:「えっ? みんなが知っている言葉なの? なあに? 私、知らない・・・」

学生一同:さらに爆笑

まつこ:「えっ? そんなにおかしい? 教えて、つんでれってどういう意味? 日本語?」

学生一同:さらにさらに爆笑

まつこ:「だから、教えてって言っているじゃない! 若い子の言葉なの? あなたたちから教えてもらわなかったら、私の周りに他に若い子いないもの・・・。ねえ、ちゃんと教えて」

学生A子:「ツンデレとは日頃ツンツンしているプライドの高い女が、好きな人の前だとデレデレすることであります」

まつこ:「なーるほど」

学生一同:大爆笑

学生全員がわかっているのに、教師一人がわからず途方にくれている、という状況です。20代になったばかりの女の子たちが、きょとんとしている教師を見て、いっせいに笑い転げるのですから、若さとは残酷なものです。

しかしこちらがとっておきのジョークを披露しても、こんなにはウケません。無防備におばさんぶりを露呈させてしまう、この無欲の芸が学生たちにとっては一番笑えるようです。なんだかちょっと不本意ではありますが・・・。

注:「ツンデレ」って『現代用語の基礎知識2007』にも出ているんですね。私、基礎知識がなかったのね。

2009年7月14日 (火)

手作りジャム

まつこです。

新潟の実家の庭に梅の古木があります。古い木なので、あまりたくさん花は咲かないのですが、今年は予想外にたくさん実がつきました。先々週末、落ちた梅の実を母がかごにたくさん集めてきました。

Photo[こんな梅の実がかご一杯とれました]

実は昨年、母が梅干しを作りたいと言い出したことがあります。梅干しの作り方など見当もつかなかった私は、「えー、うめぼし? めんどくさいなー」と思いながら、インターネットであれこれ調べ、梅の実をはじめ材料を全部買いそろえて、一緒に作り出したのですが、そろそろ日に干すというあたりで母が駄目にしてしまいました。

かごに一杯になった梅を見て、「どうしたらいいかしら?」と言う母に、「もー、めんどくさいから梅干しはやめようよ。去年も途中でダメになっちゃったし。きれいだから飾ってしばらく眺めることにしよう」と、逃げ腰の私。その様子に母は、娘の協力は得られないと悟ったようです。「そうね・・・じゃあ、しばらく眺めて捨てちゃうわ」と母。「よしよし、あきらめたな・・・この忙しいのに、梅干しどころじゃないわ」と内心、私はほっとし、そのまま梅のことなど忘れてしまいました。

ところが今週、帰省したら、あの梅がジャムに変わっていました。私が東京に戻った平日の間に、群馬に住む自分の姉に電話し相談した模様。姉(まつこの伯母)から一つ一つプロセスごとに電話で指示を受けながら、皮むいたり、煮詰めたりして、ジャムを作ったというのです。

Photo_2[酸味がきいていて、味もなかなかよろしい]

「ママ、すごい! よく作ったね! やればできるじゃん! おいしいよ」と大げさに褒めたら、嬉しそうでした。ここでママ・スイッチがオン。「味はともかく、梅は体にいいって言うから、あなたこのジャム、半分東京に持って行きなさい。あなたの生活はとにかく忙しすぎるわ。ちゃんと朝ご飯を食べなさい。このジャムとパンで朝ご飯にするといいわ」と、ママ・モード全開、上から目線の口調で娘に指示を出していました。

いやー、それにしても、やる気になると、それなりのことができるものです。最近、料理はごく簡単なものをワンパターン、それもちょっと怪しかったのですが。きっと何度も何度も、伯母に電話し、あれこれ苦労しながら、完成にこぎつけたのでしょう。よくがんばったなー、と感心しながら、甘酸っぱいジャムを味わっています。         

2009年7月12日 (日)

舌好調

まつこです。

今日は母の寝室のカーテンと浴室のブラインドの交換を業者の人にしてもらいました。実家は築15年。少しずついろんなところの補修が必要になってきています。最近、不動産業者が母のところにやってきて、家と土地を売却する気はないかと尋ねたのだそうです。知り合いの地元建築家に聞いたところ、中古住宅を安く買い取り、リフォームして高く売る、あまり評判のよくない不動産業者が出没しているとのこと。認知症の一人暮らしのおばあさんなんて、格好の標的になりそうで心配です。

母はカーテンがきれいになったので、がぜんやる気が出て、猛烈な勢いで部屋の片づけをし始めました。うめぞう、まつこも少し手伝って、寝室は余計なものがなくなり、さっぱりときれいになりました。思えば、母の認知症の兆候は部屋の片づけが急に苦手になったというあたりから現れ始めたような気がします。部屋の中の乱雑さは、頭の中の混乱を反映していたようです。部屋がさっぱりすると、気分もすっきり。初期認知症の人には、生活環境をさっぱりさせて、生活動線を単純にし、ものの収納場所がわかりやすいように整えてあげることが必要ですね。

フェルガードの効果なのか、アリセプトの効果なのか判然としませんが、母は妙に元気です。記憶力そのものは減退しているのですが、情緒的にはむしろ躁状態かと思うほどです。同じ話を楽しそうに、ぐるぐるぐるぐる何度も繰り返しながら、とにかくよくしゃべります。もともとはこんなにおしゃべりな人ではなかったのですが。独り言もやたらと増えています。認知症で何か抑制機能が落ちているのか、あるいは薬の効き目で残った脳の機能が活性化しているのか・・・。まあ、いずれにせよ、明るく楽しそうなので助かります。

Photo [うめぞうの肖像画]

うめぞうの方も絶好調です。「あー、田舎は空気がおいしい」、「あー、田舎はご飯がおいしい」、「あー、田舎では大切にされて快適だ」と、これも何度も繰り返しています。和室にこもってなにやら仕事をしていたかと思ったら、ブログで長い演説を繰り広げていましたね。こちらの方も、週末介護に同行してもらっているわりに、明るく楽しそうなので助かります。

Photo_2[実はこれはバースデー・カード]

うめぞうは先週の土曜日が誕生日でしたが、先週末は別行動だったので、私から特別なお祝いはしませんでした。ただカードだけはあげました。このバースデー・カード、春にイギリスのデパートで見かけたとたん、あまりにもうめぞうに似ているので、迷わず買ったものです。本人もカードを見たとたん、「あっ、僕だ」。それくらい似ています。

同じおしゃべりを繰り返す母と、延々と演説を繰り広げる夫と、舌好調の二人にはさまれ、明日もにぎやかな日曜日になりそうです。

2009年7月11日 (土)

自分探しはおやめなさい

ひさしぶりにうめぞう、いや、うめじいです。

自転車操業の日々が続いていて、なかなかブログを書く余裕がない。先週は還暦を迎え、自分の実家でささやかな祝い。これを機に、まつ子はうめぞうを「うめじい」と呼ぶようになった。はたしてこれがめでたいことなのか・・・

今週は従者としてまつ子の実家に帰省。久しぶりにのんびりと週末を過ごしている。男女の格差は昔と比べるとずいぶん縮まった。しかもまつ子はわが上官だ。とはいえムコという立場はそれを補ってあまりあるほど圧倒的に有利だ。ヨメという立場とはまったく違う。いわゆる非対称性が厳然と存在する。ヨメはどちらの実家でも台所に立たねばならないとついつい感じてしまう。ムコは台所に入ると即座に追い払われる。座敷で仕事をしていても罪意識はまったくない。それどころか1時間に1度、茶菓が運ばれてくる。自宅ではとてもこうはいかない。うめじいには、まずは理想的環境といえる。母君はたしかに物の名前などは出てこなくなり、独り言が多くなった。でも今のところ、表情はおだやかで、笑顔もよく見られる。もともとバカボン系のうめじいには物の名前などたいした問題ではない。タイがヒラメでも、キュウリがナスでも、人間、笑って過ごせれば「それでいいのだ」!

ところで最近よく「自分探し」という言葉を耳にする。2年ほど前には「自分探しの哲学」なる本も出た。その副題には「ほんとうの自分」と「生きる意味」と書かれていた。昨年には、自分探しに伴うさまざまなリスクについて警告した「自分探しが止まらない」という本も出版されている。

自分でも知らない「ほんとうの自分」がどこかに存在しているはずだ。それを探し当てて、本当の自分に出会うことこそが生きる意味だ ― この考え方は哲学史的に、なかなか面白い問題を含んでいる。

「本当の自分」というときの「本当」とはどういう意味か。

これには大きく分けて二つの系譜がある。ひとつは他者に対して嘘をつかないという意味での「正直さ」「誠実さ」だ。ドイツ語ではAufrichtigkeit(アウフリヒティヒカイト)、英語ならsincerity(シンシアリティ)という言葉になる。そういえばシンシアリー・ユアーズは、英語の手紙の末尾に書く言葉として、うめじいも中学生の時に習ったことがある。裏腹なく、心の底から私はあなたのもの、ということだろうか。

これに対してもう一つの系譜は、他者に嘘をつかないというのではない。自分自身を心の奥底で動かしているものをそのまま表現するという意味での「真正さ」だ。これはドイツ語でも英語でも同じ語系でAuthentizität(アウテンティツィテート)/authenticity(オーセンティシティ)という言葉で表現する。その形容詞形であるアウテンティッシュ/オーセンティックは、骨董品や絵の真贋、ヴァーチャルリアリティではない生の現実といった意味でよくつかわれる。日本語で近い言葉をさがせば「正真正銘」という感じか。

「正直」と「正真正銘」。この二つはどう違うか。一番の違いは「社会性」の有無だ。「正直さ」は他者との関係の中でのみ問題になる。一人だけの生活ではそもそも成立しない。自分に対する正直さというのは、自分自身の中に一人の他者を設定してはじめていえることだ。これに対して「正真正銘」というのは、自分の情動をそのまま表現しているということで、一人だけでもなりたつ。

たとえばうめじいは、お酒などを飲むと突然、ドン・ガバチョになりきって「みなさーーーーん、私、ひょっこりひょーたん島村長は・・」と演説を始めることがある。まつ子からは、「恥ずかしいから、お願いだから人のいるところでやるのはやめてね」、と固く言い渡されている。なぜかというとまつ子のパパが正真正銘のドン・ガバチョ一号だったからだ。このパパは長年難病を患ったあげくに2年ほど前に他界した。他者に対して「正直」であったかどうかは大いに疑問だが、つねに「正真正銘」であった。心の思いのままに生きたのである。

最近では、うめまつ、大のお気に入りの絵莉さんパパの南極物語(北極だったか?)がまさにこれだ。本人はまったくなりきっている。そんな時、うめじいも、まつ子パパも、絵莉パパも、正真正銘ドン・ガバチョであり、探検隊長なのだ。それは社会的文脈に生きる人からはバカバカしい冗談であったり、嘘であったり、逸脱であったりする。だからそれを周囲は「恥ずかしい」と感じる。この「羞恥心」を呼び起こすという性質が、「正真正銘」のひとつの特性なのだ。これは「正直」の方には見られない。

哲学史では、18世紀の半ばくらいに、「本当の自分」の定義が、「正直」さから「正真正銘」さに変化したのではないかといわれている。難しく言うと、それ以来、本来的自我が非社会的存在として表象されるようになった、というわけだ。うめじいは、その最初はルソーではなかったかと睨んでいる。ルソーの『人間不平等起源論』が設定する原初の人間は、孤立した非社会的存在だった。同じ時代でも、アダム・スミスの『道徳感情論』は、「本当の自分」をあくまで他者の視線にさらされている存在と見ていた。スミスはまだ「正直」派なのである。このあたりがイギリスと大陸の近代化の様相の違いかもしれない。ルソー、(カント)、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーと続く系譜は、うめじいの目には、自我の本来性を非社会化していく哲学運動に思える。カントをカッコにいれたのは、別の側面のカントを最近強く感じるようになったからだ。

さて、哲学者の中には、この二つの系譜を時系列ではなく、人間の本質につねに潜む二つの衝動として理解すべきだという人もいる。プレスナーという哲学者は「本当の自分を知ってほしい」衝動と「本当の自分を隠しておきたい」衝動がつねにせめぎあっているのが人間だと考えた。

さて、うめじいの立場はどうか。これはわりあいとはっきりしている。正真正銘派の自我理解は、近代的な自我形成の重要な転換であったが、惜しむらくは、それを人間存在の「本質」とみたところで失敗した。それはひとつのパフォーマンスとして、しかも非一貫的で非体系的なパフォーマンスとして解釈すべきだったのである。だからうめじいの主張はこんな風になるかな・・・

みなさーーーーん、「本当の自分」なんてものは、ありません。そんなもの探すのは、おやめなさい。井上陽水も言っています。「探すのをやめたとき、みつかることもよくあることで・・・」と。人生は一幕の芝居。本当の演技と嘘の演技があるのではありません。うまい演技とへたな演技があるだけです。誠実な芝居と不誠実な芝居があるのではありません。面白い芝居と、つまらない芝居があるだけです。みなさーーーん、たがいの人生を面白い芝居にするために、巧みな演出をしましょう。ひとりよがりはいけません。観客の笑顔が唯一の報酬です。自己憐憫はいけません。涙は楽屋で流しましょう。さまざまな人が作りだす様々な場面での役割の総体、それが強いていえば自分です。でもそれを一つの言葉で呼ぶ必要があるでしょうか。いわんやその自分の「本質」などについて語る必要があるでしょうか。それはすでに芝居のルールに反します。南極隊の隊長にはともに越冬する隊員が必要です。迫真の演技で隊員を演じましょう。会議のときには論客を演じ、恋人と一緒のときには誘惑者を演じ、介護のときには看護師を演じ、市民としては公正な社会建設のための役柄を演じ、子供の前では親を演じ、生徒の前では教師を演じ、周りに誰もいなければ、のんびりした御隠居さんを演じましょう。みなさーーーん、これは正真正銘、ドン・ガバチョになりきったうめじいのシェイクスピア礼賛でーーす。これ以上続けるとまつ子に「お願いだから、恥ずかしいからやめて!」といわれまーす・・・

2009年7月10日 (金)

ハイヒール効果

まつこです。

来日したイギリスのプロペラという劇団の公演を見に行きました。男の役者だけで『夏の夜の夢』と『ヴェニスの商人』を上演しました。『夏の夜の夢』はマッチョで汗臭い体育会系学園祭みたいな雰囲気。『ヴェニスの商人』は監獄の中に設定されていて、閉塞された空間内での差別や暴力を描いています。その『ヴェニスの商人』で印象的に使われていた小道具がありました。ハイヒールです。

Photo [これは私のハイヒール。比較的履きやすいほうの一足です]

バサーニオという借金まみれの男が、金、銀、鉛の3つの箱から正しい箱を選び出し、超お金持ちのポーシャをパートナーとして得るという場面。もともとバサーニオを意中の人としていたポーシャは、バサーニオが正しい箱を選んだ瞬間、喜んで持てるものすべてを愛する男に捧げると宣言します。

「私のものはあなたのもの、この身も、この邸宅も、召使たちもすべてあなたのもの。」今回の公演で、ポーシャはこの全面服従宣言を、ハイヒールを片方ずつゆっくりと脱ぎ棄てて、腰をかがめて低い姿勢になり、下から上目づかいでバサーニオを見上げるように語ったのです。

これまでフリンジつきのショールを体に巻きつけ、10センチくらいのハイヒールをはいていたドラッグクィーン風だったポーシャが、そのショールとハイヒールを捨てたとたん、地味でさえない年増のゲイになってしまいました。へりくだった態度で、愛情と財産を捧げられたバサーニオは思わずひいてしまいます。こんなグロテスクな相手を自分はこれから愛さなければならないのか、という困惑が思わず顔に出てしまう男・・・。

バサーニオの自分への求婚は財産目当て、本当に愛し合うゲイの恋人は別にいることを察知し、ポーシャは知恵の限りを使ってその恋人から愛する男を奪い取ります。ライバルと競うのではなく、恋敵の命をすくい恩を着せることが恋の勝負に勝つ最善の方法です。この私が絶体絶命の危機を救ってあげたのよ。この大団円は私の手柄よ。あなたは今日からは私のものよ。

このハッピー・エンディングで、ふたたびポーシャはあの10センチヒールを履いていました。堂々たる態度で夫を見下ろしながら、高らかに勝利宣言するポーシャ。これで一生バサーニオがポーシャに頭が上がらないことは明白です。

うーん、やっぱりハイヒールは女の自信の表れなんですね。年取って足の筋力が落ちるのか、だんだんハイヒールが辛くなってきていたのですが、ここはもう少しがんばって履き続けようと、シェイクスピア劇を眺めながら改めて思うまつこでした。

そういえば厚底のウェッジ・ヒールで身長を10センチほど高くすると、私はうめぞうとほぼ同じ背になります。肩を並べいつもと違う位置で目があったとき、うめぞうは「あげぞこ女」とちょっぴり悔しそうに言っていました。ただし年は年です。ぽっくりみたいな靴を履いて、骨粗鬆症でぽっくり骨折などということにならないように、気をつけないと。

注:今回のプロペラ講演のプログラムに友人のwombyさんが文章を載せています。野田秀樹氏のダジャレ満載の文章の英訳も彼の仕事。超絶的翻訳能力を発揮した英訳です。おみごと!

2009年7月 4日 (土)

名前のない世界

まつこです。

いつもどおり新潟での週末です。母は元気に暮らしていますが、最近、いろんなものの名称がすぐに出てこないということが増えています。ごく日常的な、「じゃがいも」とか「とうもろこし」といった名前もすぐに出てこなくて、ほら、あれあれ・・・ということが頻繁にあります。

Photo[これが夏椿]

花の名前もしかりです。今朝、「夏椿が今年はたくさん咲いたわね」と言ったら、「ナツツバキ??? そんな花うちにあったかしら??? ナツツバキってなに???」と、きょとんとしています。こういうことが増えました。

「明後日の月曜日は体操教室がある」とか「うめぞうさんの植えた野菜の苗が大きくなった」とか「まつこに頼まれたコーヒー豆を買いに行く」というような、文脈のあることは覚えていられるのですが、名称がだんだん記憶の中から消えていっている、という印象です。

Photo_2[お中元シーズンですね]

今日は亡くなった父の従弟からお中元が届きました。やはり名前がすぐに出てきません。「『この人』いつもお花送ってくれるのよね。冬は『あの・・ほらあの花』の盆栽だったわ」という調子です。(『あの花』は梅です。)

豪華な蘭の鉢植えをいただいたので、玄関の正面に飾ることにしました。この花台は父のまた別の従兄が、天然木で手作りしてくれたものです。「この台は『ほら・・・あの人、あの人』が作ってくれたのよね。『この人』と『こっちの人』はいとこ同士で、二人は仲がいいのよ。『この人』ほら『あの仕事』をやっていたから器用なのよ。こんな台を手作りしてくださるなんてね」。(『あの仕事』とは宮大工さんです。)

まあ、言いたいことは伝わるし、まだ会話は成立していますが、不便ではあります。名前のない世界にトリップした感じです。

蘭の鉢植えには、種類や育て方を書いたリーフレットがついてきました。それを見て「デンドロビューム・・・覚えにくいわね」と母。そりゃ、無理だ!名前なんかなくたって、「あの方からいただいたあの花がきれいでうれしい」と、それだけで良しとしましょう。

名前になんの意味があるというの。バラと呼ぶその花を別の名前で呼んだところで、甘い匂いに変わりはないわ。

What's in a name? That which we call a rose/By any other name would smell as sweet. (Romeo and Juliet, II.ii)

2009年7月 3日 (金)

涙の流れ方

まつこです。

しばらくブログ更新が停滞してしまいました。ちょっと忙しくて・・・いや、ちょっとではありません!CGを駆使したSF映画の中に入り込んでしまったように、めまいがしそうなほど、次々といろんな用事が押し寄せる毎日です。

Photo[陣中見舞いをいただきました]

この苦境を察知して、関西在住のバンブーさんが陣中見舞いを送ってきてくれました。機石荘(きせきそう)というお店の名前がついた洒落たパッケージを開けてみると、「フリュイヴェール」というハイカラな名前のお茶が出てきました。

Photo_2[水羊羹と一緒にいただきました]

緑茶にピーチやキーウィなどフルーツのフレーバーを加えたお茶です。水だしでいただくと実にさわやか~。梅雨のじめじめと湿った天気の不快さも、雑務に追われる疲労感も、この果物の甘い香りと緑茶の清涼感のまじった冷たいお茶をいただくと、すーっと消えていきます。ありがとう、バンブーさん!

こんなに忙しい理由の一つは、職場で学生の教務相談にのるという仕事が今年はあるからです。最近の大学生はよく泣きます。単位を落としたとか、ゼミの先生と意思疎通がうまくいかないとか、昔も今も、大学生の直面する問題にそれほどの変化はないと思うのですが、最近の大学生は昔より素直になっているのか辛いことがあると、すぐに涙を流すのです。

その涙を見て、発見したことがあります。若い子の涙は球形で、流れた跡が残りません。目がうるうるとしたかと思うと、まあるい涙がポロポロとあふれてきます。若いつややかな頬を流れるとき、ぱーんっと張りのある皮膚はその涙をはじき、涙はまるで真珠のようにコロコロとこぼれおちていきます。

30分も涙をこぼしながら、あれこれ話すと、たいていの学生はさっぱりした表情になります。「ありがとうございました」とにっこり笑ったその頬は、もとのとおりのつやつやとした輝きをはなっています。あー、若いってうらやましい、とそのたびに感慨にふけるまつこです。

この話を同僚のぽにょ(40代前半)にしたら、「そーよねー、私たちが泣くと、跡が筋になって残るわよねー」と、やはり感慨深げに嘆息します。いや、ぽにょ、それはまだ認識が甘い!40代後半になると、縦に涙の筋が残るのではなく、眼尻や目の下のしわをつたって、涙は横に広がるのである。

そういえばシェイクスピアにも涙を真珠にたとえる表現がときどき出てきます。真珠のような涙は若さの特権。たくさん泣いて、そのあとでたくさん笑ってほしいと願うまつこでした。

ああ、でもその涙は君が愛ゆえに流してくれる真珠/その貴さは君のつれない仕打ちをすべてあがなってくれる

Ah, but those tears are pearl which thy love sheds,/And they are rich and ronsome all ill deeds. (Sonnet 34 )

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