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2009年6月13日 (土)

Nさんの哲学修行

うめぞうです。

前にも何度か登場したが、パリに留学している若い友人夫婦がいる。S君とNさんという、磁石のような組み合わせで、じっさい磁力で引き合っているようにいつでも一緒にいて興味関心を共有している。二人とも、もう一人前の医者だが、今はパリの大学で哲学を勉強中だ。二人はうめぞうのことをいまだに先生と呼ぶが、こちらはもうずいぶん前から教えることなどなくなっている。いまや、こっちが教わる番である。

 最近Nさんがこれから勉強する予定のテーマをメールで知らせてきた。なんでもフッサールという哲学者の学問論をカントと対比しながら研究するそうだ。なぜかというと、「現象学的還元により、認識論の問題を人間の超越論的主観性の問題として読み解いた手法に感心した」からだと書いてある。

 これを読んでなるほど、と思う人は業界関係者とみていいだろう。現象学などという言葉も耳慣れないが、超越論的主観性などといわれても、なんのことかとんと想像もつかないのが普通だ。

 どの業界でも業界用語というものがある。その道に何年か身を置いていると、仲間内で通じる符牒を使って話をするようになる。その方が簡便だし、正確に事が伝わるから、それ自体としては悪いことではない。ただそれによって同業者同士が秘密結社に入っているような安心感や、場合によっては特権意識もわいてくる。だから仲間内では「現象学ってどういう意味なの」などとは聞きにくい。自分の無知をさらけ出すことになるし、また相手に正確な説明を求めるのも、すこし挑発的な感じがするからだ。

 しかし、どの業界でもこれが落とし穴になる。知らず知らずのうちに、自分たちの周りに昔のギルドのような障壁を作ってしまう。だから、医療でも哲学でも仲間内の符牒を門外漢にわかりやすく説明するトレーニングは必要だ。

 そんなわけでうめぞうも、Nさんのメールを読みながら、あらためて現象学ってなんだっけ、と考えてみた。ところが、これがなかなか難しい。基本的には、現象に即して現象を記述する方法なんだろう、と想像はつく。ところが、そこでいう「現象」とはなにか、現象に「即して」というのはどういう意味か、などとつっこみをいれると、答えは哲学者によってずいぶん違ってくるようだ。

 現象に即して、というからには、即さない記述方法があること、つまり現象にそぐわない視点や記述方法を外から持ち込んできて現象を切りとってしまう可能性が想定されている。つまり、先入見や色眼鏡をつけて現象を見てしまうということだ。しかし、何が色眼鏡になるのか、ということについては、時代によっても人によってもさまざまな意見がある。

 カントは、人間がかかわる世界を現象界と叡智界に2分した。現象界というのは、われわれが感覚器官を通じて経験し、先天的な知性の形式に基づいて整理した世界のことだ。まあ、自然科学が相手にする世界と考えておけばいいだろう。そこでは因果律が通用している。他方の叡智界は人間の自由な決断や行為が問題になる世界だ。だから当然、叡智界の出来事については道徳的責任が問われる。つまりそこでは因果律ではなく、道徳律が通用している。

 カントはこの二つの世界を区別し、その混同を禁じた。天変地異に対して人間は道徳的責任を負う必要はないし(クライスト『チリの地震』)、逆に、他者の人格を利害関係の因果律から判断してはいけないというわけだ。だからカントにとっての現象学とは、とりあえずはこの二つの世界のうちの現象界のできごとを、その枠組みの中で分析する方法ということになるだろう。

 ちなみにカントが素晴らしいのは、この二つの世界をきっちり区別した点もさることながら、現象界だけでなく叡智界を、人間理性がかかわるべき主要な分野だと主張した点にあると、うめぞうは思っている。二つの世界を区別したうえで、哲学は厳密な論理が通じる場面にだけ責任を持てばいいというのではない。自由意志に基づく道徳的行為や他者の人格尊重に対しても理性は責任をもつべきだと言っているのだ。

 さてこれがヘーゲルの精神現象学となるとずいぶん趣が違ってくる。ヘーゲルは主体と客体が相互に関係し合い、互いに相手を形作りながら、高めあって成長すると考えた。われわれの意識が石を彫って石像を作れば、客観世界に主観世界が刻印される。しかし同時に、その労働を通じて、主体は石の硬さを思い知らされる。思い通りにはいかない現実に直面して、子供の夢想は大人の現実感覚へと鍛えられる。それによってさらに美しい石像が彫れるだろう。こうして意識は意識ならざるものと出会い、格闘し、より高められた形で自らに戻ってくる。だから、現象界と叡智界はカントが言うほど画然と区別はできない。客観世界と主観世界の相互行為によって自己自身を鍛え上げていく発展運動全体を、ヘーゲルは精神と名付けた。だから精神の発展を、その成長過程に即して記述していくのがヘーゲルの現象学といえるだろう。

 しかし、世界史をまるで巨大な主体の成長過程や予定調和の歴史のように記述するのは、いかにも観念的だ。19世紀の資本主義と科学技術の発展は、こんな観念論では説明できなくなった。予定調和の期待は階級闘争によってくつがえされ、精神の自己反省は実証科学にとってかわられた。科学の対象にはならないと思われていた意識や心理現象まで実験心理学の素材に格下げされた。人間の主観性や論理も、所詮は心理法則の反映にすぎない。

 ・・・かに思われた時に、フッサールが登場する。フッサールは意識の対象は、あくまで意識の志向性が生み出す観念内容だと考えた。だからその対象が本当に実在するかどうかについては、判断を保留せざるを得ない。しかし意識するという作用そのものは、たしかに実在する。だからコップがそこにある、というのは、正確に言うと、コップがそこにあると意識している私の意識作用があるということだ。

 でも、そんなめんどくさいことをいつも考えていたら、頭が変になってしまう。だから私たちの自然なものの見方では、意識の前提条件をなしている作用のことなど気にしない。しかしフッサールは自然なものの見方をいったん停止して、その前提となっている意識作用を反省してみることを提案した。これを現象学的還元という。

 意識や認識の前提条件をなしているものを反省することを、哲学では超越論的行為と呼んでいる。現象世界の存立条件を超越論的自我に求めたのは、カントの『純粋理性批判』だった。そうしてみると、フッサールはカントの光の下で、先入観や色眼鏡に曇らされない認識を得るために、超越論的主観性の現象学的記述を行ったといえるわけだ。

 Nさんの先のメールにあった「現象学的還元により、認識論の問題を人間の超越論的主観性の問題として読み解いた手法に感心した」というのは、そういう意味だったろう。

 しかし本当に現象学的還元なんてできるんだろうか、とうめぞうはいつも思ってしまう。坐禅を組んでいる禅のお坊さんだって、たぶん、人間の意識について、現象学的還元を行いながら、意識の超越論的条件について考えていたんだろう。自分の思考について思考するという、こうした反省能力が人間の自由の源泉であることはまちがいない。でも、一人でどんなに反省してみても、しょせんはその人が考えることだ。しかも、その反省行為は言語を媒介としており、その言語はある文化の中で他者との意思疎通を通じて身についたものだ。先入観や色眼鏡は、人間の認識装置にはじめから備わっていると同時に、具体的な生活経験や他者との交流の中でも作られていく。だとすると、その修正もやはり自分一人の内省だけでなく、他者によって指摘され、批判され、他者との共通経験の中で修正されていくべきだろう。しかしNさんによれば後期のフッサールは、そんなことも十分にわかっていたようだ。

 他者とのやりとりから、自分自身の視野の修正を行っていく方法についての学問を解釈学と呼んでいる。だから超越論的主観性の現象学的記述は、たえず解釈学によって補われる必要がある。これが弟子のハイデガーの仕事になった。しかしNさんによれば、晩年の『ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学』という書物には、「学問の方法の基礎を人間の相互主観性、相互行為に求める」視点がちゃんと提示されているという。客観科学といえども生活世界の実践から生み出された主体の産物だ。そして生活世界は超越論的主観性の上に築かれている。それが忘れ去られていることに、フッサールはヨーロッパの学問の危機を見ていたというわけだ。

 こうしたフッサールの先取的な認識を、カントに戻りながら、そしてハイデガーとは違う方向で、うまくとりだすことができれば、とても有意義な論文が書けそうだ。うめぞうは、今からNさんの論文を楽しみにしている。

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