« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月21日 (日)

一日だけのいのち

まつこです。

グッスン・・・。卵からかえったばかりの鳥の赤ちゃんが、カラスに襲われてしまいました。昨日、昼間、庭で様々な鳥の猛烈な鳴き声が聞こえていました。ふと見ると、大きなカラス一羽が小さな鳥を追い散らしています。不穏な気配に、私と母は時折ガラス越しに巣をのぞき、小さな黒いまるでイモムシみたいなヒナが動いているのを見ては、安堵していたのですが。

Photo[空っぽになった巣。さびしい・・・]

夕方近く、私がちょっと買い物に出て帰ってくると、家の前の電線にカラスが一羽止まっています。じっと我が家の玄関の方を凝視しているので、「ヤバイ!」と思ったその瞬間、カラスは一直線に玄関わきの南天の木を目指して、急降下しました。あわてて走り出す私。巣にくちばしを入れているカラスを見て、「コラーッ」と近所に響く大声で叫んでしまいました。

親鳥が餌をとりに出る留守を狙っていたようです。まさに空き巣です。ステルス戦闘機のように黒い大きな鳥が、無力なヒナを襲う現場を目撃して、まつこの動揺は激しく、「ママー、鳥の巣がカラスにやられたー」と叫びながら、家に駆け込みました。逐一を聞いた母は、「カラスって自分が良ければそれでいいと思っているのかしら。なんて身勝手なのかしら」と、きわめて人間的に憤慨しました。やがて「命があるということは、日々、つらい思いをすることなのね」と悟ったように言い出しました。

日頃威張っているわりに、気の弱いまつこ。カラス襲撃の場面を思い出すたび、胸がドキドキして手が震えてきます。電話で報告を受けたうめぞうは「かわいそうだけど、それが自然の厳しさだ。食物連鎖だ。科学者の目でちゃんと観察することが大切だ。鳥だって虫を襲ってヒナに運んでいたんだから」と言いました。わかっちゃいるけど、弱肉強食の不条理さに接し、梅雨の合間の明るい青空を眺めても心重く、今も涙目になっております・・・。

しかし感傷にひたりつつも、日曜日は明日の講義の準備し、母のために買い出しをし、数日分の食事の支度もしなければなりません。さらに資源ゴミ分別問題も改善を図るべく、工夫の必要もあります。とりあえず母の苦手な「ペットボトル」に関しては、専用の箱を作り、回収の曜日を書いておきました。これでうまくいくといいのですが。

Photo_2[自作のペットボトル回収箱]

これから冷蔵庫にある鶏肉を料理せねばなりません。気分は複雑です。今回は自然界の厳しさを学習した週末介護帰省でした。

2009年6月20日 (土)

ヒナかえる

まつこです。

いつもどおり、金曜の晩、新潟に来ました。玄関を入って、そっとガラス越しに見ると、鳥が先週と全く同じポーズで、じっと卵を温めていました。

Photo[朝はこんな風にじっとしていました]

今日の昼くらいから動きが慌ただしく、リビング・ルームの前を、しばしば黒っぽい鳥が行き来します。どうやら今日、少なくとも一羽はかえったようです。お昼過ぎ、見てみると、ちっちゃな黒っぽいものが口を開いているのが見えました。おおー、テレビの自然ドキュメンタリー番組と同じ風景だ!

おのずと食事の際の母と私の会話は鳥のことになります。「これであの鳥も一安心ねぇ。ほっとしたでしょうねぇ。御苦労さまだったわねぇ。」「それにしてもあの鳥、見た目がおじいさん風だわ。年寄りなのかしら。」「巣立つときには、お世話になりました、の一言くらい挨拶してもらいたいわねぇ。」

Photo_2[お昼過ぎに見た時は、こうして立ち上がっていました。肉眼では黒い雛が一羽見えました]

母は昔からわりと、ユーモアのセンスがある方ではあったのですが、もはやこれが冗談なのか、ボケて本気で言っている発言なのか、娘の私にも判然と区別できなくなってきました。まあ、ボケているとしても「明るいボケだ」と思って、笑ってすますことにしよう、と内心あせりながら、力なく笑うまつこでした。

Photo_3[アサガオも芽を出しました]

5月24日に植えたアサガオの種は、先週、双葉を出し、今週はさらに葉が増えていました。こうした自然観察以上に、私にとって切実なる観察対象は、まずは母です。「ママ、前にアサガオの種植えたじゃない・・・」と、さりげなく切り出します。「そうそう、芽が出てきたわね。」この会話は、数週間前と今がちゃんとつながっているので、一安心。

しかし・・・棚の上に意味不明なメモを発見。「ペット前、トレイ後」と書いてあります。母に聞いてみると、資源ゴミの日に、ペットボトルとトレイを一緒に持って行ったら、ペットボトルは前の日であると言われたそうです。それで書いたのだそうですが、どうも資源ゴミの分別がややあやしくなっています。

市の回収方法も今年度から変わって、以前、プラスチックとしていた四角いマークのボトル(おしょう油なんかの容器)もペットボトルとして、一括して集めることになったのです。母には、昨年苦労して、このプラスチック製ボトルとペットボトルの分け方を教えたのですが、その区分がなくなったわけです。プラスチックであればトレイと同じ木曜日回収なのですが、ペットボトルは火曜日回収なのです。

こう書いているだけでもややこしいので、母が混乱するのも当り前なのですが。でも上記のようなことをゆっくり、繰り返し、説明していたら、母が大きなため息をついて、「あー、疲れた」と一言。どうも聞けば聞くほど、混乱し、頭が疲れるらしいのです。

東京のマンションの掲示板に、「ご近所に認知症の人がいたら見守ってあげましょう。ゴミの分別をしばしば間違えたりしたら、認知症かもしれません」という広報が貼ってありました。ちょっと進行しちゃったかな、と思うことが少しずつ増えています。覚悟はしているものの、不安も感じる週末です。

2009年6月19日 (金)

ピカピカのキッチン

まつこです。

家事代行サービス、第1回目を経験しました! 初回サービスということで、お二人でやってこられて2時間半、家の中をあっちこっち、懸命にお掃除してくださいました。おかげで台所などピカピカになりました。

Photo[せっかくきれいにしてもらったから汚さないように…]

ドイツ人は一般にきれい好きとされています。ドイツの主婦は常に台所をきれいにしておき、汚すのが嫌だから、あまり料理をしないと聞いたことがあります。以前、我が家をドイツ人の友人の大男に2週間ほど貸した時も、最後は台所をピカピカにしてくれました。ゲルマン的力強さで、あっちこっちゴシゴシ磨き上げたようです。今回もあのときと同じくらいきれい。

あー、こんなにきれいになるのなら、もっと早く頼めばよかった。「僕が掃除するから、そのお金を老後資金に回した方がよい」と言っていたうめぞうも、仕上がりを見て、「共稼ぎの人はもっと頼んだ方が良い。内需拡大になる。景気浮揚だ」と、あっさり宗旨替えをしました。何にせよ、まつこの機嫌が良ければ、無原則に安堵するうめぞうです。

プロの手でいったんきれいにしてもらうと、その美しさを保とうと、お掃除をする意欲がわいてきます。家事代行サービス会社のお二人が帰ったあと、今回の2時間半ではやってもらえなかったベランダ掃除などを、おずおずと始める私。家事アウト・ソーシングの波及効果は、今のところ良いほうに出ているようです。

2009年6月14日 (日)

玄関で野鳥観察

まつこです。

朝、階下から聞こえるうめぞうの「かわいい~!」という声で目を覚ましました。降りて行くと母とうめぞうがなにやら騒いでいます。なんと、玄関の窓の外の南天の木に鳥の巣ができていました。

Photo[なんという種類の鳥でしょう?]

白っぽいものを見て、母は風で吹かれて飛んできたビニールのひもが庭木にからみついていると思ったそうです。近づいてみると鳥の巣と判明し、朝から我が家は大騒ぎとなりました。

家の中からガラス越しに見ている限りは大丈夫ですが、外に出て写真を撮ろうとしたら、ギャーッというものすごい悲鳴を上げて親鳥は巣から飛び立ってしまいます。

Photo_3[卵は3つか4つあるようです]

しばらくすると戻ってきて、またじっと卵を温めています。しかし親鳥はいかにも警戒した目で周囲を常に見張っています。私たちも鳥を驚かさないように、静かにじっと見守ることにしました。

しかしよりによって玄関の横です。一日に何回も通らざるを得ません。そのたびに息を殺して、ひそひそ声になり、そっと引き戸を開閉して出入りしています。廊下を歩くときも静かに、静かに。なんか気を遣って疲れます。

Photo[外から見ると枝にカモフラージュされていてよく見えません]

外から見ると、南天の枝葉の陰で巣はよく見えないのですが、鳥も家の中から覗き見する人間のことまでは計算に入れずに、巣づくりの場所を選んだようです。玄関からはまる見え。しばらくは息をひそめてのガラス越しの野鳥観察を楽しめそうです。

この鳥の名前はなんでしょう? ご存じの方がいたら教えてください。

2009年6月13日 (土)

和室で哲学

まつこです。

今週は久しぶりにうめぞうも一緒に新潟にやってきました。木曜日の夜、駅弁を買って新幹線に飛び乗り。ワインを入れた紙コップで乾杯すれば、観光旅行の気分です。

Photo[和室にこもって哲学するうめぞう]

田舎の家につくと、うめぞうは和室にこもり、なにやら一生懸命仕事している様子。何しているのと聞いてみたら、「ブログ書いている」とのこと。新幹線で食べた駅弁のことでも書いているのかと思ったら、「現象学」について論考していました。ちょっと難しい記事ですね・・・。

でも和室から出てくると、うめぞうの興味は哲学の世界から一気に形而下の食べ物のことにうつります。田舎にいると空気がきれいなせいか、いつもよりおなかがすきます。市場直送のアジのお刺身や、家庭菜園で採れたソラマメなど食べながら、母の話し相を愉快そうにしてくれています。母もムコ殿がいると、いつもよりおしゃべりで、ご機嫌です。

哲学したり、老母の話し相手になったり、おいしいもの食べたり、充実した田舎の週末を、うめぞうは楽しんでいるようです。

Nさんの哲学修行

うめぞうです。

前にも何度か登場したが、パリに留学している若い友人夫婦がいる。S君とNさんという、磁石のような組み合わせで、じっさい磁力で引き合っているようにいつでも一緒にいて興味関心を共有している。二人とも、もう一人前の医者だが、今はパリの大学で哲学を勉強中だ。二人はうめぞうのことをいまだに先生と呼ぶが、こちらはもうずいぶん前から教えることなどなくなっている。いまや、こっちが教わる番である。

 最近Nさんがこれから勉強する予定のテーマをメールで知らせてきた。なんでもフッサールという哲学者の学問論をカントと対比しながら研究するそうだ。なぜかというと、「現象学的還元により、認識論の問題を人間の超越論的主観性の問題として読み解いた手法に感心した」からだと書いてある。

 これを読んでなるほど、と思う人は業界関係者とみていいだろう。現象学などという言葉も耳慣れないが、超越論的主観性などといわれても、なんのことかとんと想像もつかないのが普通だ。

 どの業界でも業界用語というものがある。その道に何年か身を置いていると、仲間内で通じる符牒を使って話をするようになる。その方が簡便だし、正確に事が伝わるから、それ自体としては悪いことではない。ただそれによって同業者同士が秘密結社に入っているような安心感や、場合によっては特権意識もわいてくる。だから仲間内では「現象学ってどういう意味なの」などとは聞きにくい。自分の無知をさらけ出すことになるし、また相手に正確な説明を求めるのも、すこし挑発的な感じがするからだ。

 しかし、どの業界でもこれが落とし穴になる。知らず知らずのうちに、自分たちの周りに昔のギルドのような障壁を作ってしまう。だから、医療でも哲学でも仲間内の符牒を門外漢にわかりやすく説明するトレーニングは必要だ。

 そんなわけでうめぞうも、Nさんのメールを読みながら、あらためて現象学ってなんだっけ、と考えてみた。ところが、これがなかなか難しい。基本的には、現象に即して現象を記述する方法なんだろう、と想像はつく。ところが、そこでいう「現象」とはなにか、現象に「即して」というのはどういう意味か、などとつっこみをいれると、答えは哲学者によってずいぶん違ってくるようだ。

 現象に即して、というからには、即さない記述方法があること、つまり現象にそぐわない視点や記述方法を外から持ち込んできて現象を切りとってしまう可能性が想定されている。つまり、先入見や色眼鏡をつけて現象を見てしまうということだ。しかし、何が色眼鏡になるのか、ということについては、時代によっても人によってもさまざまな意見がある。

 カントは、人間がかかわる世界を現象界と叡智界に2分した。現象界というのは、われわれが感覚器官を通じて経験し、先天的な知性の形式に基づいて整理した世界のことだ。まあ、自然科学が相手にする世界と考えておけばいいだろう。そこでは因果律が通用している。他方の叡智界は人間の自由な決断や行為が問題になる世界だ。だから当然、叡智界の出来事については道徳的責任が問われる。つまりそこでは因果律ではなく、道徳律が通用している。

 カントはこの二つの世界を区別し、その混同を禁じた。天変地異に対して人間は道徳的責任を負う必要はないし(クライスト『チリの地震』)、逆に、他者の人格を利害関係の因果律から判断してはいけないというわけだ。だからカントにとっての現象学とは、とりあえずはこの二つの世界のうちの現象界のできごとを、その枠組みの中で分析する方法ということになるだろう。

 ちなみにカントが素晴らしいのは、この二つの世界をきっちり区別した点もさることながら、現象界だけでなく叡智界を、人間理性がかかわるべき主要な分野だと主張した点にあると、うめぞうは思っている。二つの世界を区別したうえで、哲学は厳密な論理が通じる場面にだけ責任を持てばいいというのではない。自由意志に基づく道徳的行為や他者の人格尊重に対しても理性は責任をもつべきだと言っているのだ。

 さてこれがヘーゲルの精神現象学となるとずいぶん趣が違ってくる。ヘーゲルは主体と客体が相互に関係し合い、互いに相手を形作りながら、高めあって成長すると考えた。われわれの意識が石を彫って石像を作れば、客観世界に主観世界が刻印される。しかし同時に、その労働を通じて、主体は石の硬さを思い知らされる。思い通りにはいかない現実に直面して、子供の夢想は大人の現実感覚へと鍛えられる。それによってさらに美しい石像が彫れるだろう。こうして意識は意識ならざるものと出会い、格闘し、より高められた形で自らに戻ってくる。だから、現象界と叡智界はカントが言うほど画然と区別はできない。客観世界と主観世界の相互行為によって自己自身を鍛え上げていく発展運動全体を、ヘーゲルは精神と名付けた。だから精神の発展を、その成長過程に即して記述していくのがヘーゲルの現象学といえるだろう。

 しかし、世界史をまるで巨大な主体の成長過程や予定調和の歴史のように記述するのは、いかにも観念的だ。19世紀の資本主義と科学技術の発展は、こんな観念論では説明できなくなった。予定調和の期待は階級闘争によってくつがえされ、精神の自己反省は実証科学にとってかわられた。科学の対象にはならないと思われていた意識や心理現象まで実験心理学の素材に格下げされた。人間の主観性や論理も、所詮は心理法則の反映にすぎない。

 ・・・かに思われた時に、フッサールが登場する。フッサールは意識の対象は、あくまで意識の志向性が生み出す観念内容だと考えた。だからその対象が本当に実在するかどうかについては、判断を保留せざるを得ない。しかし意識するという作用そのものは、たしかに実在する。だからコップがそこにある、というのは、正確に言うと、コップがそこにあると意識している私の意識作用があるということだ。

 でも、そんなめんどくさいことをいつも考えていたら、頭が変になってしまう。だから私たちの自然なものの見方では、意識の前提条件をなしている作用のことなど気にしない。しかしフッサールは自然なものの見方をいったん停止して、その前提となっている意識作用を反省してみることを提案した。これを現象学的還元という。

 意識や認識の前提条件をなしているものを反省することを、哲学では超越論的行為と呼んでいる。現象世界の存立条件を超越論的自我に求めたのは、カントの『純粋理性批判』だった。そうしてみると、フッサールはカントの光の下で、先入観や色眼鏡に曇らされない認識を得るために、超越論的主観性の現象学的記述を行ったといえるわけだ。

 Nさんの先のメールにあった「現象学的還元により、認識論の問題を人間の超越論的主観性の問題として読み解いた手法に感心した」というのは、そういう意味だったろう。

 しかし本当に現象学的還元なんてできるんだろうか、とうめぞうはいつも思ってしまう。坐禅を組んでいる禅のお坊さんだって、たぶん、人間の意識について、現象学的還元を行いながら、意識の超越論的条件について考えていたんだろう。自分の思考について思考するという、こうした反省能力が人間の自由の源泉であることはまちがいない。でも、一人でどんなに反省してみても、しょせんはその人が考えることだ。しかも、その反省行為は言語を媒介としており、その言語はある文化の中で他者との意思疎通を通じて身についたものだ。先入観や色眼鏡は、人間の認識装置にはじめから備わっていると同時に、具体的な生活経験や他者との交流の中でも作られていく。だとすると、その修正もやはり自分一人の内省だけでなく、他者によって指摘され、批判され、他者との共通経験の中で修正されていくべきだろう。しかしNさんによれば後期のフッサールは、そんなことも十分にわかっていたようだ。

 他者とのやりとりから、自分自身の視野の修正を行っていく方法についての学問を解釈学と呼んでいる。だから超越論的主観性の現象学的記述は、たえず解釈学によって補われる必要がある。これが弟子のハイデガーの仕事になった。しかしNさんによれば、晩年の『ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学』という書物には、「学問の方法の基礎を人間の相互主観性、相互行為に求める」視点がちゃんと提示されているという。客観科学といえども生活世界の実践から生み出された主体の産物だ。そして生活世界は超越論的主観性の上に築かれている。それが忘れ去られていることに、フッサールはヨーロッパの学問の危機を見ていたというわけだ。

 こうしたフッサールの先取的な認識を、カントに戻りながら、そしてハイデガーとは違う方向で、うまくとりだすことができれば、とても有意義な論文が書けそうだ。うめぞうは、今からNさんの論文を楽しみにしている。

2009年6月 9日 (火)

家事をアウト・ソーシング

まつこです。

ふぅ~・・・と冒頭からため息まじりですが、このところ仕事がたてこんで、なかなかブログが書けませんでした。朝早くに出勤、夜遅くに帰宅、帰宅後もパソコンに向かい、週末も仕事・・・もう限界だぁ! というわけで、決心しました。わが家も家事代行サービス導入です。主婦業をアウト・ソーシングです。

これに関してはウメマツの間で若干、意見が分かれました。次第にキッチンなどの汚れが気になりだしイライラしてきたまつこと、「僕、このくらいの汚れなら平気」と平然としているうめぞう。「僕に時間があるときに掃除してあげるよ」とうめぞうは言ってくれるのですが、「あなたにいつ時間があるの! あなたも忙しいじゃん!! だいたいあなたが掃除してたら気がひけてイヤなのよ!!!」とまずは声高に恫喝。さらに「mgmも頼んでいる、ミュシャも頼んでいる、ぽにょも頼んでいる、バンブーも頼んでいる、ゴーギャンも頼んでいるんだって」と、次から次へと同業者の友人の名を引き合いに出し、しつこく懇願。このあたりでうめぞうはめんどくさくなり、どっちでもいいよ、まかせる、ということになりました。

業界大手のD社と、ぽにょから紹介された2006年設立の新興M社。両方から見積もりに来てもらい、比較検討しました。きわめて細かいことまでシステマティックに規定されていて安心感のあるD社。一方M社の方は、1回ごとにこちらの要望にあわせてフレキシブルに対応してくれそう。ちょっと悩んだのですが、比較的料金の安いM社に来てもらうことにしました。2週に1回、掃除を中心にやってもらいます。

Photo[道具をそろえて準備万端]

このM社のやり方は毎回同じ担当者が電車でやってきて、掃除用具や洗剤などは、自社のものを持ち込むのではなく、その家にあるものを使うのだそうです。渡された用具リストで不足しているものを、さっそく買いそろえました。雑巾、お風呂用のスポンジとブラシなどなど。

見積りに来てもらう際に、多少、見栄をはって掃除をしておきました。来週からいよいよ実際にお掃除に来てもらうわけですが、あまりに汚いと面目ない。掃除用具を入れるところも分かりやすいように整理しないといけません。というわけで今朝は、早朝からあっちこっちの片づけをし、出勤前にひと汗かきました。

あれ? 来てもらう前からきれいになっている・・・。うーん、若干、矛盾をはらんでいるようではありますが、早くも投資効果が出たということでしょうか。まあ、とにかく自力、他力あわせて環境美化計画実施中です。

2009年6月 2日 (火)

年を取ると幸せになる!

うめぞうです。

われわれ2人は一回り違いの丑年で、うめぞうはもう一ヶ月ほどして、アメリカの独立記念日がやってくると、還暦と相成る。それに比べれば48歳などというのは、まさに女盛り、年齢のことなどまったく気にする必要はないように思うのだが、まつこ自身は最近とみに体力と容色の衰えを感じるようで、アンチエイジングのために、日夜ひそかに奮闘努力しているらしい。

年を取るつらさは、ほとんど文明の始まりとともにあったようで紀元前2500年にすでにエジプトの賢者プタホテップが、老人の日々の衰えを嘆いている。

しかし、うめぞうは、みずからの経験に即して断言する。この先のことは知らないが、少なくともこれまでのところ、年齢とともに幸福感は増してきた。年を取るにつれ、人間は自分自身と自分の環境により深く満足するようになる。心が安定する。人生全般に対して肯定的な見方ができるようになる。他人の業績や幸運をうらやんだり、ねたんだりしなくなる。自分のできることがごくわずかしかないことに、心から納得できるようになる。だから競争のために何かをしようとは思わなくなる。すべては、あくまで自分の楽しみのためにおこなう。

また、葛藤に悩む度合いも減っていく。たとえばわれわれの前に、Aという選択肢とBという選択肢があったとしよう。若いうちは、どちらかの選択肢を思い切って捨てる勇気がない。だから両方の選択肢を中途半端に追っかけてしまう。その結果、たえず葛藤に悩み、結局は両方ともを失ってしまう。無理にAをとれば、Bを取るべきだったかと後悔する。ついには、複数の選択肢の前に立たされること自体から逃げようとする。

年を取ると、自分に合わない選択肢は比較的容易に捨てられるようになる。ものごとにプライオリティがつけられるようになるのだ。それができるようになると、かえって多様な選択肢の前に立たされることが苦痛ではなくなる。むしろそれを楽しむことができる。あれか、これかと若いときに悩んでいたことが、とりあえずは、あれをやろうと思い切ったとたんに、これのほうも案外できるようになる、という具合だ。

運動能力も、筋肉も、言葉も、訓練さえすれば、何歳になってもそれなりに向上する。だから年を取ることを、まったく怖れる必要はない。むしろおおいに楽しみにしてほしいものだ。うめぞうの父親はやはり丑年で、今年96歳になる。本人によれば、その年になって良いことは、死をまったく怖れなくなることだと言う。死を怖れなければ、基本的にこの世に怖いものはない。年齢とともに、人は自由になる。ある意味で大胆になる。失うものがどんどん少なくなり、怖れるべきもの、守らなければならないものが次第になくなれば、自由自在、思い通りに生きていけばいい。

ウルズラ・シュタウディンガーというドイツのエイジング研究者の最近の研究でも、加齢はより満足感にあふれた人生をもたらすということが確認されている。フロイデ!みんなで、年を取ることをもっと楽しもうではないか。

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »