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2009年5月23日 (土)

家庭内論争

うめぞうです。

うめまつは、普通の意味でなら、まあ仲の良い夫婦といえるだろう。おたがい面倒は避けたいからけんかはしない。ひょっとしてむこうが我慢をしているのかもしれないが、少なくともこちらとしてはけんかの種になるような不満を感じたことはない。

では何事につけ「そうそう、そうだよねえ」と意見や趣味が合うかといえば、それはまったく違う。だからわが家ではよく議論になる。しかも、おたがい、見た目よりはるかに頑固で、しかも頑固なのは相手の方だと両方で思っているので、なかなか自分の方からは妥協しない。

ほかの人がもし一日われわれに同行取材していたら、「よく一緒にいますねえ」という感想のほかに、「よくそれだけ議論しますねえ」とあきれられるかもしれない。

議論のテーマは政治、経済、社会全般に及ぶ。しかし、議論の土台というか、視点というか、基本的な発想、目の付け所がまったく違う。

たとえば政治家についての評価。うめぞうはやはりその人の政策や主張についての判断が主になる。まつこは違う。「この人、なんかヘン、なんかイヤ」。これだけである。ところが、すごいのはこれがほとんど揺れ動かないところだ。考えてみれば当然である。政策や主張は時流によって変化する。人間の個性は変わらない。理屈もへったくれもない。まつこは自分の直観の正しさを確信している。そしてそれがなぜヘンで、なぜヤなのかは、そのうち立証されるだろうと思っている。だから本人がその立証責任を負う必要はない。

もう10年以上も前になるが、橋本内閣が倒れた後、小渕、梶原両氏に対抗して小泉氏が自民党総裁選に立候補した。結局小渕氏の勝利に終わるが、このときの選挙は田中真紀子氏から「凡人、軍人、変人」の闘いと揶揄された。この言葉には、田中真紀子という政治家の非凡なセンスを感じたものだ。

この小泉氏に対しては、まつこはいちばん最初から「ヤダ」である。うめぞうは、この時点では少なくとも何を主張しているのかがはっきりわかる政治家だという点で評価していた。その後、時代は変わり、うめぞうは小泉批判に鞍替えする。「だから最初から言ったじゃない」と、まつこには今でも言われる。まつこが昔から「わりといい」と言うのは河野洋平。宮沢喜一や加藤紘一も比較的良かった。野中氏も良い方の部類にはいる。なるほど、政治的主張や派閥ではなく、人柄の点で懐の深そうな印象がある。

こんなふうだから、まつこは立場が変わる人にはきわめて厳しい。最近では、新自由主義者から「ざんげの転向」をしたという中谷巌氏などに対して、「今まで言ってきたことが本当に誤りだったと思うなら、まずは10年くらい沈黙して学問的検証をすべきだ」と舌鋒鋭い。うめぞうは、これに比べるとすぐにごまかされる。まつこには「人の見方が甘い」といわれるゆえんである。

ところで、ここ数日のうめまつの議論は、組織の中でこまごまとした規則が作られ、皆が自分の感覚や常識を鈍磨させている、というまつこの批判をめぐるものだ。うめぞうは、公平な判断や個人の人権保護のためには、法の支配が浸透していくこともある程度やむをえない、と主張し、まつこは、なにか解決すべき問題が生じたとき「規約ではどうなっていますか」というのが最初の反応だという集団はおかしい、と主張している。この議論はまだまだ当分続きそうだ。

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