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2009年4月27日 (月)

カントの平和論

うめぞうです。

カントに「永久平和について」という論文がある。

ちなみに、これまでの日本語タイトルはほとんどが「永遠平和のために」となっている。永遠、永久、恒久などの表現は趣味の問題として、ドイツ語の Zum ewigen Frieden の最初の前置詞を「・・・のために」と訳してきたわけだ。もちろん、そんな意味にも取れるかもしれないが、うめぞうの貧しいドイツ語力では「・・・について」というくらいの意味に感じられる。英語では単にPerpetual Paeceというタイトルで訳されているようだ。このzuは本や論文のタイトルとして「Zur Dialektik bei Adorno und Hegel」(アドルノとヘーゲルの弁証法について)といった具合に今日でもよく使われる。

まあそれはたいした問題ではないが、この小冊子は、とても200年前に書かれたとは思えないほど、今でも読み応えがある。カントが最終的に目指すのは、世界市民的憲法状態。いわば、世界のどこにあっても、一人の人間が尊厳ある個として、不可侵の自由と平等な権利を保障されている、法の支配がいきわたった世界状態だ。

これが一国内ですら難しいことはわれわれが日常的に経験していることだが、ここに主権国家が介在すると、問題は飛躍的に難しくなる。法の支配がいきわたるためには、違法行為をとりしまるための強力な権限や権力を、市民の合意に従って誰かに一元的に委譲しなければならない。たしかに自分の身は自分で守るという基本権は万人に保障されてしかるべきだ。しかし、みんなにそれを認めていると、つねに潜在的な敵対状態が生じる。場合によっては、機先を制して先制攻撃に出る人もいるかもしれない。だから自分の身を自分で守る基本権を万人に保障するためには、自分の身を自分で守る基本権の一部をたがいに放棄しあうことを市民が約束するしかない。これが社会契約という考え方だ。

たとえば日本であれば、市民は法に基づく武力行使権を警察に委ねている。だから、どんなに不条理な行為に対しても、一市民が「天に代わって成敗してくれる」というわけにはいかない。これが昔の西部劇の世界なら、自分の身は自分で守らねばならないから、銃の所有、および自己防衛のための銃使用は個人の基本権に属する。だから、ヒーローであるさすらいのガンマンは、法ではなく、自分の正義感にもとづいて銃を行使する。今でもアメリカの銃規制が問題になると、抵抗勢力にはこの時代の記憶が蘇るようだ。

しかし、これが主権国家の集まりである国際関係となると、こうはいかない。世界の警察機構に武力行使の権限を一元化するなどというのは、まったくの夢物語だからだ。そこでカントは理論的には必然性のある世界共和国の設立を当面あきらめて、平和を愛する共和国間の平和同盟からはじめることを提唱した。先ずはそこからはじめて、加盟国を徐々に増やしていくという方針だ。高邁な理論と厳しい現実のハザマにあって、カントは理論の一部を、現実論に即した形で修正したーーこんなふうにカントの論文はこれまで読まれてきた。

これについては、最近別の読み方も提唱されている。世界市民的憲法状態を実現するには世界共和国を設立するほかない、というカントの思い込みは、じつはカントが共和国のモデルとして、誕生したてのフランス共和国を念頭に置いていたために生じたというのだ。そこでは国民国家の主権の不可分性が前提とされていた。もし同じ共和国でも、主権が様々なレベルに分散していたアメリカ合衆国をカントが念頭においていれば、全体の議論はもうすこしちがったものになっていたはずだ、というのである。

うめぞうはこの鋭い指摘に大いに感心し、終わらない戦争を終わらせる理論的可能性について、あれこれと考えている。

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