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2009年3月16日 (月)

顔で笑って

まつこです。

昨日の夕刻、新潟にやってきました。今日と明日は在宅で仕事をしながら、母と過ごします。新潟もずいぶん暖かくなり、庭の梅の木に花が咲きました。

Photo[古い木なので、花が少ないのですが、我が家の庭にも春が来ました]

最近の母は、私が少しでも体調を崩すと、まるで我が家の一大事のように大騒ぎします。純粋に母親として子供を心配する気持ちもありますが、頼りにしている娘という支えがぐらつくのが不安という、本能的な危機感を感じるようです。「忙しすぎるんじゃないの」「年を考えて体調管理をしなさい」「若いころと同じような気分でいちゃだめよ」「毎週毎週、新潟と東京の往復は無理よ」などなど、いつまでも延々とまくしたてます。かなーり、うんざりします。

なので、風邪をひこうが、ぎっくり腰になろうが、虫歯が痛もうが、新潟では不調の気配は隠し通します。顔で笑って、心で泣いて、娘はつらいよ、という気分です。しかし、「顔で笑って」という演技は、介護する側の心理的負担も、少し軽減してくれるように思います。

疲れていて、本気では優しい気持ちになれないとき、心からの笑顔が出てこないとき、そんなときは「ここは優しいふりをしよう」、「演技でいいから笑いかけよう」と、うわべを取りつくろう自分を認めてしまうのです。

介護の悩みの一つに、「親に優しく接したいのに優しくなれない」自分を責める気持ちがあるように思います。しかし、まつこは断言しましょう。嘘の笑顔や優しさの演技に罪悪感を抱く必要はありません。むしろ「ふりだけでいいや」と思う割り切りや、「あー、自分は今演技しているんだ」という自覚が、心の余裕につながる気がします。

だって、「あなたも年なんだから気をつけなさい」なんて、老母に繰り返し言われて、それでも心から微笑んでいられたら、その人はマザー・テレサ級ですから。むっ・・・とした内心を隠す作り笑いは介護の必須ツールですね。

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コメント

ジジェクは、信仰の客観性について、「ラカンの基本的な前提の一つ」としてこう述べています。面白かったんで引用してみます。

>信仰(信念)は内的なものであり、認識は(外的な手続きによって確証しうるという意味で)外的なものだ、というのが一般的な定式であるが、むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。(『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶・訳、河出書房新社、55頁)

だから、経文が入っているチベットの地蔵車を回すことは、客観的に祈っていることになります。「泣き女」を雇い、葬式で代わりに泣いてもらうことは、他者を媒介として服喪の義務を果たすことにつながります。この論で行けば、日本などもっとも信仰が外的な文化圏でしょうね。葬式、結婚、初詣、などなど。これらは「形」として感情を外化することかもしれません。感情を他者を通じて外化・転嫁する例として、ジジェクはテレビ番組で多用される、あらかじめ録音された笑い声などの挿入を例に挙げていますが、これらがいつ笑うべきかを視聴者である我々に教えてくれ、のみならずそれでも疲れているなどの理由でぼけっと見ていたいときには、我々の代わりに笑ってくれるのです。よって「笑いの缶詰」はギリシャ悲劇のコロスと同じ機能を果たしていることになりますね。

以上、形が大事という話に私も同感という話でした。

wombyさん、おおー、ラカンですか。前に一度だけ読みかけてよくわからず、「ラカンではなく、こりゃアカンだわ」とあきらめました。

「形ではなく内容が大事」という精神主義から解放されると、技術的解決が早まることって多いですよね。なんとなく日本では「形が大事」と言いにくい気がするけど・・・。

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