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2009年2月 9日 (月)

マルタとマリア

うめぞうです。

前にも書いたがうめぞうには躁鬱の傾向がある。ここ一週間は、どうもまつこのプチ鬱が感染したらしく低迷中である。ただし、季節も大いに関係しているようで、梅がほころび、彼岸を迎えて沈丁花が薫ってくる頃には再び高揚期に入る。そんなわけで、今日はお笑いネタではなく、ちょっと趣向を変えて聖書の話である。

ルカ伝10章には、聖書の中でも最も感動的な話のひとつである「よきサマリア人」の話がのっている。それに続いて紹介されているのが、今日取り上げるマルタとマリアという姉妹の話である。

聖書にはマリアという名前の女性がいろいろ出てきてまぎらわしい。まずはイエスの母親のマリア様。これは一番有名人なのでわかりやすい。あとはマグダラのマリア、マリア・マグダレーナという女性。ちなみに、母親のマリア様は、絵画ではたいてい紺色系のマントを羽織って登場するが、マグダレーナさんのマントは朱色系が多い。このマグダレーナさんは、どうもイエスの恋人、ないしは妻だったんじゃないかという説もある。ダビンチの最後の晩餐でイエスの横にいるのも、使徒ヨハネじゃなくて、マグダレーナだったという人さえいる。なにしろ復活したイエスが、12人の弟子たちをとびこして、最初に会いに来られた人だ。不謹慎な類推を許していただけるなら、やはりうめぞうだって、復活したらまずはまつこに会いに来るにちがいない。ただ、うめぞうの場合は気が弱いから、まつこの横に男がいたりすると、すごすごと冥界に戻っていくかもしれない。自分よりいい男でもなんか面白くないし、自分よりブ男だと、もっと腹が立つ・・・。うーむ。

本題に戻ろう。あとは、ヨハネ伝8章に出てくる罪の女。学者や宗教指導者たちが、姦通罪で捕えられた一人の女性をイエスの前に引き出し、「モーセの律法によれば石打の刑で殺すべきではないか」とイエスに迫る。ここでのイエスの答えは、新約聖書のハイライトのひとつだろう。「なんじらのうち、罪なき者、まず石をなげうて」。すると一人一人、その場を立ち去って誰もいなくなる。そしてその女性にイエスは「われもなんじを罪せじ。ゆけ、この後ふたたび罪を犯すな」と言う。あるいはルカ伝7章には罪あるひとりの女(これも姦通や売春を示唆する表現)がイエスの足を涙でうるおし、自分の髪でこれを拭い、口づけして香油を塗ったという記事がある。自分の涙と髪で先生の足を拭い、今でいえば超高級香水で、おみあしを清めるというのは、尋常ならざる感謝と情愛の表現だ。

この女性こそ、あのマグダレーナだったんではないかという説は昔からあって、実際グレゴール一世という教皇が認めたこともある。そんなわけで、たとえばかつて売春などで生計を立てていた女性たちの援助更生組織などにマグダレーナの名前が使われたことがよくある。また絵画などでは妖艶な娼婦の姿で登場することもある。

そして第三のマリアが、今日取り上げるベタニアのマリア。ラザロという兄弟とマルタという姉がいる。ヨハネ伝11章によると、これはあの髪の毛で足を拭い、イエスに香油を塗った女性だと説明されている。となると、マグダラのマリアとベタニアのマリアは同一人物?という疑問もわいてくる。じっさい西方のローマカトリックと、東方のギリシャ正教は、ながらくこの点で見解が分かれていた。東方では、最初から別人説だったが、たしかに普通の読者として聖書を読むと、この姉妹とマグダレーナさんは、性格も出自もかなり異なるように感じられる。ローマカトリック教会も第2バチカン公会議(1962-65)以降、別人物説になったようだ。

ともあれイエスはこの3人兄弟姉妹をとても愛していたようで、ラザロにいたってはイエスのおかげで死人から蘇っている。聖書によると、この奇跡が当時の宗教指導者に衝動と動揺を与え、イエス殺害への謀略に火をつけたようだ。

このマルタ姉さんと、妹のマリアの関係が面白い。ルカ伝10章は、イエスの一行が自分のところにやってくるというので、姉さんのマルタが「饗応のこと多くして、心いりみだれ」と書いている。接待準備でてんてこまいしているのである。ところが妹のマリアの方はいっこうに姉を手助けする様子もなく、イエスの足もとに座ってただイエスの言葉に耳を傾けている。そこで頭にきた姉さんがイエスに直訴する。「主よ、わが姉妹、われを一人のこして働かするを、なんとも思い給わぬか。かれに命じてわれを助けしめたまえ」。ちょっとは、妹にも台所を手伝うように先生からもおっしゃってください、というわけだ。それに対するイエスの答えがまた意表を突く。「マルタよ、マルタよ、汝さまざまの事により、思いわずらいて心づかいす。されど無くてならぬものは多からず。唯一つのみ。マリアは善き方を選びたり。これはかれより奪うべからざるものなり」。

食事の準備は、どうしても間に合わなければ不十分でもいいじゃないか。豪華な食事はまた明日でもできる。しかし今、自分の言葉に心を打たれ、信仰に目覚めるのであれば、それはもう二度と到来しないかもしれない瞬間ではないか。今、その瞬間に立ち会っている妹に不平不満をぶつけてはいけないよ――うめぞうにはイエスの言葉がそんな趣旨に聞こえる。たしかに、はっとさせられる話ではある。しかし、やはりどこかに割り切れない思いがある。何事につけ高邁な理想を夢見る人より、日々の雑用を黙々とこなす実践者こそが、最終的には問題解決により近い場所にいる、というのがプラグマティストうめぞうの基本信条だからだ。

うめぞうはクリスチャンの両親のもとで育ったから、小さい時から、日曜学校でこの話はよくきかされた。しかしこの話を聞くたびに、イエスの言葉より、マルタの気持ちの方により強く共感できた。これまた不謹慎な想像を許していただければ、うめぞうが嫁さんにするならマルタの方だと、今でも思っている。しかし多くの男性には、マリアの方が恋愛対象として素敵かもしれない。自分のやりたいことをやりとおし、ちまちましたケチくさいところがない。ゴージャスである。ヨハネ伝によると、このマリアは、ばか高い混じりけのない香油を愛するイエスに惜しげもなく振りかけて、のちにイエスを裏切ることになるユダから「そんなにもったいないことするなら、この油を売って貧乏人に施すべきだ」と皮肉をいわれている。

マルタとマリアの話はまた姉と妹の関係を示唆する話としても、じつに含蓄が深い。社会的にものを考え、犠牲的精神でてきぱき事を処理する合理主義者の姉さんと、やや現実感覚に乏しく、大胆かつ情熱的なロマンティシストの妹。それぞれ素敵な女性たちではあるが、さてみなさんはマリア派?それともマルタ派?マリアを嫁さんにしたい派?マルタを嫁さんにしたい派?

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コメント

うめぞう様
 やはりご両親はクリスチャンでございましたか。以前、お母様が教会のお掃除当番・・・の記事を拝見し、そうではないか思っておりました。
 私もこのマルタとマリアの話をよくききました。私はイエスの言葉に共感していましたが・・・。 
 ときどき、皆で食事をしている時に、人が食べ終わるのを待たずに片付けはじめてしまう人を見ると、「マルタみたいだなぁ」と思ってしまいます。

そうですねえ。イエスの言葉の方が宗教としては本質を突いているのだろうなあと、じつは私もどこかでは思っています。でもみんながそんなふうに説明するので、生来のへそまがりとしては、ちょっと反対のことを言ってみたかったというわけです。子供のころ、私の実家では、父親がいつも天下国家を論じ、母親がせっせと家事をしていたので、子供としては、そんな母親の立場をマルタに重ね合わせていたのかもしれません。

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