2009年7月12日 (日)

舌好調

まつこです。

今日は母の寝室のカーテンと浴室のブラインドの交換を業者の人にしてもらいました。実家は築15年。少しずついろんなところの補修が必要になってきています。最近、不動産業者が母のところにやってきて、家と土地を売却する気はないかと尋ねたのだそうです。知り合いの地元建築家に聞いたところ、中古住宅を安く買い取り、リフォームして高く売る、あまり評判のよくない不動産業者が出没しているとのこと。認知症の一人暮らしのおばあさんなんて、格好の標的になりそうで心配です。

母はカーテンがきれいになったので、がぜんやる気が出て、猛烈な勢いで部屋の片づけをし始めました。うめぞう、まつこも少し手伝って、寝室は余計なものがなくなり、さっぱりときれいになりました。思えば、母の認知症の兆候は部屋の片づけが急に苦手になったというあたりから現れ始めたような気がします。部屋の中の乱雑さは、頭の中の混乱を反映していたようです。部屋がさっぱりすると、気分もすっきり。初期認知症の人には、生活環境をさっぱりさせて、生活動線を単純にし、ものの収納場所がわかりやすいように整えてあげることが必要ですね。

フェルガードの効果なのか、アリセプトの効果なのか判然としませんが、母は妙に元気です。記憶力そのものは減退しているのですが、情緒的にはむしろ躁状態かと思うほどです。同じ話を楽しそうに、ぐるぐるぐるぐる何度も繰り返しながら、とにかくよくしゃべります。もともとはこんなにおしゃべりな人ではなかったのですが。独り言もやたらと増えています。認知症で何か抑制機能が落ちているのか、あるいは薬の効き目で残った脳の機能が活性化しているのか・・・。まあ、いずれにせよ、明るく楽しそうなので助かります。

Photo [うめぞうの肖像画]

うめぞうの方も絶好調です。「あー、田舎は空気がおいしい」、「あー、田舎はご飯がおいしい」、「あー、田舎では大切にされて快適だ」と、これも何度も繰り返しています。和室にこもってなにやら仕事をしていたかと思ったら、ブログで長い演説を繰り広げていましたね。こちらの方も、週末介護に同行してもらっているわりに、明るく楽しそうなので助かります。

Photo_2[実はこれはバースデー・カード]

うめぞうは先週の土曜日が誕生日でしたが、先週末は別行動だったので、私から特別なお祝いはしませんでした。ただカードだけはあげました。このバースデー・カード、春にイギリスのデパートで見かけたとたん、あまりにもうめぞうに似ているので、迷わず買ったものです。本人もカードを見たとたん、「あっ、僕だ」。それくらい似ています。

同じおしゃべりを繰り返す母と、延々と演説を繰り広げる夫と、舌好調の二人にはさまれ、明日もにぎやかな日曜日になりそうです。

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2009年7月11日 (土)

自分探しはおやめなさい

ひさしぶりにうめぞう、いや、うめじいです。

自転車操業の日々が続いていて、なかなかブログを書く余裕がない。先週は還暦を迎え、自分の実家でささやかな祝い。これを機に、まつ子はうめぞうを「うめじい」と呼ぶようになった。はたしてこれがめでたいことなのか・・・

今週は従者としてまつ子の実家に帰省。久しぶりにのんびりと週末を過ごしている。男女の格差は昔と比べるとずいぶん縮まった。しかもまつ子はわが上官だ。とはいえムコという立場はそれを補ってあまりあるほど圧倒的に有利だ。ヨメという立場とはまったく違う。いわゆる非対称性が厳然と存在する。ヨメはどちらの実家でも台所に立たねばならないとついつい感じてしまう。ムコは台所に入ると即座に追い払われる。座敷で仕事をしていても罪意識はまったくない。それどころか1時間に1度、茶菓が運ばれてくる。自宅ではとてもこうはいかない。うめじいには、まずは理想的環境といえる。母君はたしかに物の名前などは出てこなくなり、独り言が多くなった。でも今のところ、表情はおだやかで、笑顔もよく見られる。もともとバカボン系のうめじいには物の名前などたいした問題ではない。タイがヒラメでも、キュウリがナスでも、人間、笑って過ごせれば「それでいいのだ」!

ところで最近よく「自分探し」という言葉を耳にする。2年ほど前には「自分探しの哲学」なる本も出た。その副題には「ほんとうの自分」と「生きる意味」と書かれていた。昨年には、自分探しに伴うさまざまなリスクについて警告した「自分探しが止まらない」という本も出版されている。

自分でも知らない「ほんとうの自分」がどこかに存在しているはずだ。それを探し当てて、本当の自分に出会うことこそが生きる意味だ ― この考え方は哲学史的に、なかなか面白い問題を含んでいる。

「本当の自分」というときの「本当」とはどういう意味か。

これには大きく分けて二つの系譜がある。ひとつは他者に対して嘘をつかないという意味での「正直さ」「誠実さ」だ。ドイツ語ではAufrichtigkeit(アウフリヒティヒカイト)、英語ならsincerity(シンシアリティ)という言葉になる。そういえばシンシアリー・ユアーズは、英語の手紙の末尾に書く言葉として、うめじいも中学生の時に習ったことがある。裏腹なく、心の底から私はあなたのもの、ということだろうか。

これに対してもう一つの系譜は、他者に嘘をつかないというのではない。自分自身を心の奥底で動かしているものをそのまま表現するという意味での「真正さ」だ。これはドイツ語でも英語でも同じ語系でAuthentizität(アウテンティツィテート)/authenticity(オーセンティシティ)という言葉で表現する。その形容詞形であるアウテンティッシュ/オーセンティックは、骨董品や絵の真贋、ヴァーチャルリアリティではない生の現実といった意味でよくつかわれる。日本語で近い言葉をさがせば「正真正銘」という感じか。

「正直」と「正真正銘」。この二つはどう違うか。一番の違いは「社会性」の有無だ。「正直さ」は他者との関係の中でのみ問題になる。一人だけの生活ではそもそも成立しない。自分に対する正直さというのは、自分自身の中に一人の他者を設定してはじめていえることだ。これに対して「正真正銘」というのは、自分の情動をそのまま表現しているということで、一人だけでもなりたつ。

たとえばうめじいは、お酒などを飲むと突然、ドン・ガバチョになりきって「みなさーーーーん、私、ひょっこりひょーたん島村長は・・」と演説を始めることがある。まつ子からは、「恥ずかしいから、お願いだから人のいるところでやるのはやめてね」、と固く言い渡されている。なぜかというとまつ子のパパが正真正銘のドン・ガバチョ一号だったからだ。このパパは長年難病を患ったあげくに2年ほど前に他界した。他者に対して「正直」であったかどうかは大いに疑問だが、つねに「正真正銘」であった。心の思いのままに生きたのである。

最近では、うめまつ、大のお気に入りの絵莉さんパパの南極物語(北極だったか?)がまさにこれだ。本人はまったくなりきっている。そんな時、うめじいも、まつ子パパも、絵莉パパも、正真正銘ドン・ガバチョであり、探検隊長なのだ。それは社会的文脈に生きる人からはバカバカしい冗談であったり、嘘であったり、逸脱であったりする。だからそれを周囲は「恥ずかしい」と感じる。この「羞恥心」を呼び起こすという性質が、「正真正銘」のひとつの特性なのだ。これは「正直」の方には見られない。

哲学史では、18世紀の半ばくらいに、「本当の自分」の定義が、「正直」さから「正真正銘」さに変化したのではないかといわれている。難しく言うと、それ以来、本来的自我が非社会的存在として表象されるようになった、というわけだ。うめじいは、その最初はルソーではなかったかと睨んでいる。ルソーの『人間不平等起源論』が設定する原初の人間は、孤立した非社会的存在だった。同じ時代でも、アダム・スミスの『道徳感情論』は、「本当の自分」をあくまで他者の視線にさらされている存在と見ていた。スミスはまだ「正直」派なのである。このあたりがイギリスと大陸の近代化の様相の違いかもしれない。ルソー、(カント)、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーと続く系譜は、うめじいの目には、自我の本来性を非社会化していく哲学運動に思える。カントをカッコにいれたのは、別の側面のカントを最近強く感じるようになったからだ。

さて、哲学者の中には、この二つの系譜を時系列ではなく、人間の本質につねに潜む二つの衝動として理解すべきだという人もいる。プレスナーという哲学者は「本当の自分を知ってほしい」衝動と「本当の自分を隠しておきたい」衝動がつねにせめぎあっているのが人間だと考えた。

さて、うめじいの立場はどうか。これはわりあいとはっきりしている。正真正銘派の自我理解は、近代的な自我形成の重要な転換であったが、惜しむらくは、それを人間存在の「本質」とみたところで失敗した。それはひとつのパフォーマンスとして、しかも非一貫的で非体系的なパフォーマンスとして解釈すべきだったのである。だからうめじいの主張はこんな風になるかな・・・

みなさーーーーん、「本当の自分」なんてものは、ありません。そんなもの探すのは、おやめなさい。井上陽水も言っています。「探すのをやめたとき、みつかることもよくあることで・・・」と。人生は一幕の芝居。本当の演技と嘘の演技があるのではありません。うまい演技とへたな演技があるだけです。誠実な芝居と不誠実な芝居があるのではありません。面白い芝居と、つまらない芝居があるだけです。みなさーーーん、たがいの人生を面白い芝居にするために、巧みな演出をしましょう。ひとりよがりはいけません。観客の笑顔が唯一の報酬です。自己憐憫はいけません。涙は楽屋で流しましょう。さまざまな人が作りだす様々な場面での役割の総体、それが強いていえば自分です。でもそれを一つの言葉で呼ぶ必要があるでしょうか。いわんやその自分の「本質」などについて語る必要があるでしょうか。それはすでに芝居のルールに反します。南極隊の隊長にはともに越冬する隊員が必要です。迫真の演技で隊員を演じましょう。会議のときには論客を演じ、恋人と一緒のときには誘惑者を演じ、介護のときには看護師を演じ、市民としては公正な社会建設のための役柄を演じ、子供の前では親を演じ、生徒の前では教師を演じ、周りに誰もいなければ、のんびりした御隠居さんを演じましょう。みなさーーーん、これは正真正銘、ドン・ガバチョになりきったうめじいのシェイクスピア礼賛でーーす。これ以上続けるとまつ子に「お願いだから、恥ずかしいからやめて!」といわれまーす・・・

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2009年7月10日 (金)

ハイヒール効果

まつこです。

来日したイギリスのプロペラという劇団の公演を見に行きました。男の役者だけで『夏の夜の夢』と『ヴェニスの商人』を上演しました。『夏の夜の夢』はマッチョで汗臭い体育会系学園祭みたいな雰囲気。『ヴェニスの商人』は監獄の中に設定されていて、閉塞された空間内での差別や暴力を描いています。その『ヴェニスの商人』で印象的に使われていた小道具がありました。ハイヒールです。

Photo [これは私のハイヒール。比較的履きやすいほうの一足です]

バサーニオという借金まみれの男が、金、銀、鉛の3つの箱から正しい箱を選び出し、超お金持ちのポーシャをパートナーとして得るという場面。もともとバサーニオを意中の人としていたポーシャは、バサーニオが正しい箱を選んだ瞬間、喜んで持てるものすべてを愛する男に捧げると宣言します。

「私のものはあなたのもの、この身も、この邸宅も、召使たちもすべてあなたのもの。」今回の公演で、ポーシャはこの全面服従宣言を、ハイヒールを片方ずつゆっくりと脱ぎ棄てて、腰をかがめて低い姿勢になり、下から上目づかいでバサーニオを見上げるように語ったのです。

これまでフリンジつきのショールを体に巻きつけ、10センチくらいのハイヒールをはいていたドラッグクィーン風だったポーシャが、そのショールとハイヒールを捨てたとたん、地味でさえない年増のゲイになってしまいました。へりくだった態度で、愛情と財産を捧げられたバサーニオは思わずひいてしまいます。こんなグロテスクな相手を自分はこれから愛さなければならないのか、という困惑が思わず顔に出てしまう男・・・。

バサーニオの自分への求婚は財産目当て、本当に愛し合うゲイの恋人は別にいることを察知し、ポーシャは知恵の限りを使ってその恋人から愛する男を奪い取ります。ライバルと競うのではなく、恋敵の命をすくい恩を着せることが恋の勝負に勝つ最善の方法です。この私が絶体絶命の危機を救ってあげたのよ。この大団円は私の手柄よ。あなたは今日からは私のものよ。

このハッピー・エンディングで、ふたたびポーシャはあの10センチヒールを履いていました。堂々たる態度で夫を見下ろしながら、高らかに勝利宣言するポーシャ。これで一生バサーニオがポーシャに頭が上がらないことは明白です。

うーん、やっぱりハイヒールは女の自信の表れなんですね。年取って足の筋力が落ちるのか、だんだんハイヒールが辛くなってきていたのですが、ここはもう少しがんばって履き続けようと、シェイクスピア劇を眺めながら改めて思うまつこでした。

そういえば厚底のウェッジ・ヒールで身長を10センチほど高くすると、私はうめぞうとほぼ同じ背になります。肩を並べいつもと違う位置で目があったとき、うめぞうは「あげぞこ女」とちょっぴり悔しそうに言っていました。ただし年は年です。ぽっくりみたいな靴を履いて、骨粗鬆症でぽっくり骨折などということにならないように、気をつけないと。

注:今回のプロペラ講演のプログラムに友人のwombyさんが文章を載せています。野田秀樹氏のダジャレ満載の文章の英訳も彼の仕事。超絶的翻訳能力を発揮した英訳です。おみごと!

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2009年7月 4日 (土)

名前のない世界

まつこです。

いつもどおり新潟での週末です。母は元気に暮らしていますが、最近、いろんなものの名称がすぐに出てこないということが増えています。ごく日常的な、「じゃがいも」とか「とうもろこし」といった名前もすぐに出てこなくて、ほら、あれあれ・・・ということが頻繁にあります。

Photo[これが夏椿]

花の名前もしかりです。今朝、「夏椿が今年はたくさん咲いたわね」と言ったら、「ナツツバキ??? そんな花うちにあったかしら??? ナツツバキってなに???」と、きょとんとしています。こういうことが増えました。

「明後日の月曜日は体操教室がある」とか「うめぞうさんの植えた野菜の苗が大きくなった」とか「まつこに頼まれたコーヒー豆を買いに行く」というような、文脈のあることは覚えていられるのですが、名称がだんだん記憶の中から消えていっている、という印象です。

Photo_2[お中元シーズンですね]

今日は亡くなった父の従弟からお中元が届きました。やはり名前がすぐに出てきません。「『この人』いつもお花送ってくれるのよね。冬は『あの・・ほらあの花』の盆栽だったわ」という調子です。(『あの花』は梅です。)

豪華な蘭の鉢植えをいただいたので、玄関の正面に飾ることにしました。この花台は父のまた別の従兄が、天然木で手作りしてくれたものです。「この台は『ほら・・・あの人、あの人』が作ってくれたのよね。『この人』と『こっちの人』はいとこ同士で、二人は仲がいいのよ。『この人』ほら『あの仕事』をやっていたから器用なのよ。こんな台を手作りしてくださるなんてね」。(『あの仕事』とは宮大工さんです。)

まあ、言いたいことは伝わるし、まだ会話は成立していますが、不便ではあります。名前のない世界にトリップした感じです。

蘭の鉢植えには、種類や育て方を書いたリーフレットがついてきました。それを見て「デンドロビューム・・・覚えにくいわね」と母。そりゃ、無理だ!名前なんかなくたって、「あの方からいただいたあの花がきれいでうれしい」と、それだけで良しとしましょう。

名前になんの意味があるというの。バラと呼ぶその花を別の名前で呼んだところで、甘い匂いに変わりはないわ。

What's in a name? That which we call a rose/By any other name would smell as sweet. (Romeo and Juliet, II.ii)

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2009年7月 3日 (金)

涙の流れ方

まつこです。

しばらくブログ更新が停滞してしまいました。ちょっと忙しくて・・・いや、ちょっとではありません!CGを駆使したSF映画の中に入り込んでしまったように、めまいがしそうなほど、次々といろんな用事が押し寄せる毎日です。

Photo[陣中見舞いをいただきました]

この苦境を察知して、関西在住のバンブーさんが陣中見舞いを送ってきてくれました。機石荘(きせきそう)というお店の名前がついた洒落たパッケージを開けてみると、「フリュイヴェール」というハイカラな名前のお茶が出てきました。

Photo_2[水羊羹と一緒にいただきました]

緑茶にピーチやキーウィなどフルーツのフレーバーを加えたお茶です。水だしでいただくと実にさわやか~。梅雨のじめじめと湿った天気の不快さも、雑務に追われる疲労感も、この果物の甘い香りと緑茶の清涼感のまじった冷たいお茶をいただくと、すーっと消えていきます。ありがとう、バンブーさん!

こんなに忙しい理由の一つは、職場で学生の教務相談にのるという仕事が今年はあるからです。最近の大学生はよく泣きます。単位を落としたとか、ゼミの先生と意思疎通がうまくいかないとか、昔も今も、大学生の直面する問題にそれほどの変化はないと思うのですが、最近の大学生は昔より素直になっているのか辛いことがあると、すぐに涙を流すのです。

その涙を見て、発見したことがあります。若い子の涙は球形で、流れた跡が残りません。目がうるうるとしたかと思うと、まあるい涙がポロポロとあふれてきます。若いつややかな頬を流れるとき、ぱーんっと張りのある皮膚はその涙をはじき、涙はまるで真珠のようにコロコロとこぼれおちていきます。

30分も涙をこぼしながら、あれこれ話すと、たいていの学生はさっぱりした表情になります。「ありがとうございました」とにっこり笑ったその頬は、もとのとおりのつやつやとした輝きをはなっています。あー、若いってうらやましい、とそのたびに感慨にふけるまつこです。

この話を同僚のぽにょ(40代前半)にしたら、「そーよねー、私たちが泣くと、跡が筋になって残るわよねー」と、やはり感慨深げに嘆息します。いや、ぽにょ、それはまだ認識が甘い!40代後半になると、縦に涙の筋が残るのではなく、眼尻や目の下のしわをつたって、涙は横に広がるのである。

そういえばシェイクスピアにも涙を真珠にたとえる表現がときどき出てきます。真珠のような涙は若さの特権。たくさん泣いて、そのあとでたくさん笑ってほしいと願うまつこでした。

ああ、でもその涙は君が愛ゆえに流してくれる真珠/その貴さは君のつれない仕打ちをすべてあがなってくれる

Ah, but those tears are pearl which thy love sheds,/And they are rich and ronsome all ill deeds. (Sonnet 34 )

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2009年6月21日 (日)

一日だけのいのち

まつこです。

グッスン・・・weep。卵からかえったばかりの鳥の赤ちゃんが、カラスに襲われてしまいました。昨日、昼間、庭で様々な鳥の猛烈な鳴き声が聞こえていました。ふと見ると、大きなカラス一羽が小さな鳥を追い散らしています。不穏な気配に、私と母は時折ガラス越しに巣をのぞき、小さな黒いまるでイモムシみたいなヒナが動いているのを見ては、安堵していたのですが。

Photo[空っぽになった巣。さびしい・・・]

夕方近く、私がちょっと買い物に出て帰ってくると、家の前の電線にカラスが一羽止まっています。じっと我が家の玄関の方を凝視しているので、「ヤバイ!」と思ったその瞬間、カラスは一直線に玄関わきの南天の木を目指して、急降下しました。あわてて走り出す私。巣にくちばしを入れているカラスを見て、「コラーッ」と近所に響く大声で叫んでしまいました。

親鳥が餌をとりに出る留守を狙っていたようです。まさに空き巣です。ステルス戦闘機のように黒い大きな鳥が、無力なヒナを襲う現場を目撃して、まつこの動揺は激しく、「ママー、鳥の巣がカラスにやられたー」と叫びながら、家に駆け込みました。逐一を聞いた母は、「カラスって自分が良ければそれでいいと思っているのかしら。なんて身勝手なのかしら」と、きわめて人間的に憤慨しました。やがて「命があるということは、日々、つらい思いをすることなのね」と悟ったように言い出しました。

日頃威張っているわりに、気の弱いまつこ。カラス襲撃の場面を思い出すたび、胸がドキドキして手が震えてきます。電話で報告を受けたうめぞうは「かわいそうだけど、それが自然の厳しさだ。食物連鎖だ。科学者の目でちゃんと観察することが大切だ。鳥だって虫を襲ってヒナに運んでいたんだから」と言いました。わかっちゃいるけど、弱肉強食の不条理さに接し、梅雨の合間の明るい青空を眺めても心重く、今も涙目になっております・・・。

しかし感傷にひたりつつも、日曜日は明日の講義の準備し、母のために買い出しをし、数日分の食事の支度もしなければなりません。さらに資源ゴミ分別問題も改善を図るべく、工夫の必要もあります。とりあえず母の苦手な「ペットボトル」に関しては、専用の箱を作り、回収の曜日を書いておきました。これでうまくいくといいのですが。

Photo_2[自作のペットボトル回収箱]

これから冷蔵庫にある鶏肉を料理せねばなりません。気分は複雑です。今回は自然界の厳しさを学習した週末介護帰省でした。

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2009年6月20日 (土)

ヒナかえる

まつこです。

いつもどおり、金曜の晩、新潟に来ました。玄関を入って、そっとガラス越しに見ると、鳥が先週と全く同じポーズで、じっと卵を温めていました。

Photo[朝はこんな風にじっとしていました]

今日の昼くらいから動きが慌ただしく、リビング・ルームの前を、しばしば黒っぽい鳥が行き来します。どうやら今日、少なくとも一羽はかえったようです。お昼過ぎ、見てみると、ちっちゃな黒っぽいものが口を開いているのが見えました。おおー、テレビの自然ドキュメンタリー番組と同じ風景だ!

おのずと食事の際の母と私の会話は鳥のことになります。「これであの鳥も一安心ねぇ。ほっとしたでしょうねぇ。御苦労さまだったわねぇ。」「それにしてもあの鳥、見た目がおじいさん風だわ。年寄りなのかしら。」「巣立つときには、お世話になりました、の一言くらい挨拶してもらいたいわねぇ。」

Photo_2[お昼過ぎに見た時は、こうして立ち上がっていました。肉眼では黒い雛が一羽見えました]

母は昔からわりと、ユーモアのセンスがある方ではあったのですが、もはやこれが冗談なのか、ボケて本気で言っている発言なのか、娘の私にも判然と区別できなくなってきました。まあ、ボケているとしても「明るいボケだ」と思って、笑ってすますことにしよう、と内心あせりながら、力なく笑うまつこでした。

Photo_3[アサガオも芽を出しました]

5月24日に植えたアサガオの種は、先週、双葉を出し、今週はさらに葉が増えていました。こうした自然観察以上に、私にとって切実なる観察対象は、まずは母です。「ママ、前にアサガオの種植えたじゃない・・・」と、さりげなく切り出します。「そうそう、芽が出てきたわね。」この会話は、数週間前と今がちゃんとつながっているので、一安心。

しかし・・・棚の上に意味不明なメモを発見。「ペット前、トレイ後」と書いてあります。母に聞いてみると、資源ゴミの日に、ペットボトルとトレイを一緒に持って行ったら、ペットボトルは前の日であると言われたそうです。それで書いたのだそうですが、どうも資源ゴミの分別がややあやしくなっています。

市の回収方法も今年度から変わって、以前、プラスチックとしていた四角いマークのボトル(おしょう油なんかの容器)もペットボトルとして、一括して集めることになったのです。母には、昨年苦労して、このプラスチック製ボトルとペットボトルの分け方を教えたのですが、その区分がなくなったわけです。プラスチックであればトレイと同じ木曜日回収なのですが、ペットボトルは火曜日回収なのです。

こう書いているだけでもややこしいので、母が混乱するのも当り前なのですが。でも上記のようなことをゆっくり、繰り返し、説明していたら、母が大きなため息をついて、「あー、疲れた」と一言。どうも聞けば聞くほど、混乱し、頭が疲れるらしいのです。

東京のマンションの掲示板に、「ご近所に認知症の人がいたら見守ってあげましょう。ゴミの分別をしばしば間違えたりしたら、認知症かもしれません」という広報が貼ってありました。ちょっと進行しちゃったかな、と思うことが少しずつ増えています。覚悟はしているものの、不安も感じる週末です。

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2009年6月19日 (金)

ピカピカのキッチン

まつこです。

家事代行サービス、第1回目を経験しました! 初回サービスということで、お二人でやってこられて2時間半、家の中をあっちこっち、懸命にお掃除してくださいました。おかげで台所などピカピカになりました。

Photo[せっかくきれいにしてもらったから汚さないように…]

ドイツ人は一般にきれい好きとされています。ドイツの主婦は常に台所をきれいにしておき、汚すのが嫌だから、あまり料理をしないと聞いたことがあります。以前、我が家をドイツ人の友人の大男に2週間ほど貸した時も、最後は台所をピカピカにしてくれました。ゲルマン的力強さで、あっちこっちゴシゴシ磨き上げたようです。今回もあのときと同じくらいきれい。

あー、こんなにきれいになるのなら、もっと早く頼めばよかった。「僕が掃除するから、そのお金を老後資金に回した方がよい」と言っていたうめぞうも、仕上がりを見て、「共稼ぎの人はもっと頼んだ方が良い。内需拡大になる。景気浮揚だ」と、あっさり宗旨替えをしました。何にせよ、まつこの機嫌が良ければ、無原則に安堵するうめぞうです。

プロの手でいったんきれいにしてもらうと、その美しさを保とうと、お掃除をする意欲がわいてきます。家事代行サービス会社のお二人が帰ったあと、今回の2時間半ではやってもらえなかったベランダ掃除などを、おずおずと始める私。家事アウト・ソーシングの波及効果は、今のところ良いほうに出ているようです。

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2009年6月14日 (日)

玄関で野鳥観察

まつこです。

朝、階下から聞こえるうめぞうの「かわいい~!」という声で目を覚ましました。降りて行くと母とうめぞうがなにやら騒いでいます。なんと、玄関の窓の外の南天の木に鳥の巣ができていました。

Photo[なんという種類の鳥でしょう?]

白っぽいものを見て、母は風で吹かれて飛んできたビニールのひもが庭木にからみついていると思ったそうです。近づいてみると鳥の巣と判明し、朝から我が家は大騒ぎとなりました。

家の中からガラス越しに見ている限りは大丈夫ですが、外に出て写真を撮ろうとしたら、ギャーッというものすごい悲鳴を上げて親鳥は巣から飛び立ってしまいます。

Photo_3[卵は3つか4つあるようです]

しばらくすると戻ってきて、またじっと卵を温めています。しかし親鳥はいかにも警戒した目で周囲を常に見張っています。私たちも鳥を驚かさないように、静かにじっと見守ることにしました。

しかしよりによって玄関の横です。一日に何回も通らざるを得ません。そのたびに息を殺して、ひそひそ声になり、そっと引き戸を開閉して出入りしています。廊下を歩くときも静かに、静かに。なんか気を遣って疲れます。

Photo[外から見ると枝にカモフラージュされていてよく見えません]

外から見ると、南天の枝葉の陰で巣はよく見えないのですが、鳥も家の中から覗き見する人間のことまでは計算に入れずに、巣づくりの場所を選んだようです。玄関からはまる見え。しばらくは息をひそめてのガラス越しの野鳥観察を楽しめそうです。

この鳥の名前はなんでしょう? ご存じの方がいたら教えてください。

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2009年6月13日 (土)

和室で哲学

まつこです。

今週は久しぶりにうめぞうも一緒に新潟にやってきました。木曜日の夜、駅弁を買って新幹線に飛び乗り。ワインを入れた紙コップで乾杯すれば、観光旅行の気分です。

Photo[和室にこもって哲学するうめぞう]

田舎の家につくと、うめぞうは和室にこもり、なにやら一生懸命仕事している様子。何しているのと聞いてみたら、「ブログ書いている」とのこと。新幹線で食べた駅弁のことでも書いているのかと思ったら、「現象学」について論考していました。ちょっと難しい記事ですね・・・。

でも和室から出てくると、うめぞうの興味は哲学の世界から一気に形而下の食べ物のことにうつります。田舎にいると空気がきれいなせいか、いつもよりおなかがすきます。市場直送のアジのお刺身や、家庭菜園で採れたソラマメなど食べながら、母の話し相を愉快そうにしてくれています。母もムコ殿がいると、いつもよりおしゃべりで、ご機嫌です。

哲学したり、老母の話し相手になったり、おいしいもの食べたり、充実した田舎の週末を、うめぞうは楽しんでいるようです。

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